2005年07月24日

「タバコを吸う女は嫌いだ」は差別か?

今日、家に帰ってきた所で、
祇園祭の神輿が交差点を回転してる所に遭遇しました。
めたかです。
祇園祭って、
「宵山」と「山鉾巡行」だけって
思っている人は、結構居るかもしれないですけど
実は、7月、丸一ヶ月間に渡る
「長丁場」のお祭りなんですよね。
(興味のある方は、この辺のページを)


さて、書ける時に、溜まったネタを
ガンガン書いていきましょう。
先ほど約束した、差別の話から1つ。


かなり昔の話ですが、
喫煙についての「議論」の中で、
ある人が「タバコを吸う女は嫌いだ」
というのは、喫煙者を差別しているって
言っていたんです。

えぇ? そうなんかぁ? って思って
私はその時は
「じゃぁ、『暴力を振るう男は嫌いだ』も差別なの?」
なんて返していたんですが、
でも、
心の中ではずっと、この事が引っかかっていました。

だけど、
ある時、気がついたんです。
「タバコを吸う女は嫌いだ」
は、差別だった
なって・・・

ただ、それは
「喫煙者に対する差別」ではないんです。
そうではなく、
これは女性差別なんです。

いや、
「タバコを吸う女は嫌いだ」
と言ってる人が
「タバコを吸う男も嫌い」って言うなら
それは、差別ではないと思う。
「タバコを吸う」という行為を嫌ってるだけ、でしょう。
だけど、
「タバコを吸うは嫌いだ」
と、
わざわざ「」と断って言ってるのは、
そう言ってる人は大抵、
「女性限定」でタバコをすう人を嫌ってるんでしょう。

これは、つまり
「女はタバコを吸ってはイケナイ」
という価値観が、背後にあるって事だと、思うんです。


ま、
これには異論はたくさん、あるだろうなって
思っています。
また、
「例外的事例」も、結構ありそうだなって。
例えば
ちょっと思ったのは
「タバコを吸う女が嫌い」というのを
男性が「恋愛対象として見る事が出来ない」
って意味で言ってる場合はあるかなって。
その場合は
「女」である事ではなく
「異性」である事が重要な訳で、
そういう場合は、差別にはあたらないかなって。

ただ、
「タバコを吸う女は嫌いだ」
という言葉の裏に
女性限定で、その行動を規制する考え方があるなら、
それは、差別なのではないかって
思っているんです。
posted by めたか at 22:53| Comment(7) | TrackBack(0) | 社会・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブログ炎上についての今の所のまとめ

ちょっと遅くなりましたが、
若隠居のブログ炎上の件について
私見を述べようと思います。

実は、Scottさんのブログに、
コメントで書いた
のですが、
ブログで匿名さんと議論するのは
非常に難しいな、というのが結論なんです。
それは、
以前から思っていて、
町山さんの日記の休止の件
(そのコメント欄にもあるfinalventの件も)
の事があった時にも、
そういう記事を書こうと思っていたんですけど。
それと、
この記事で「棲み分け」と言っていたのは、
「ブログのコメント欄では
 匿名さんとブログ主の議論は難しいだろう」
というのが念頭にあった訳です。

Scottさんも書いておられる通り、
「匿名の利点」の1つ「後腐れが無い」事は
双方が名無しであって成り立つ事で、
ブログ主として対話する限り、
それはブログ主にとっては不公平な関係に
なってしまってるだろう、と思う。


ま、そういう訳で、
私は「コメント欄はアドレス記入必須」
にさせて頂いているんですよね。


###
元々、私はブログ炎上に対して
「ブログ主に責任がある」という意見に対し
否定的だったんです。
それは、去年に記者ブログがたくさん炎上している時に
「イジメはイジメられっ子に原因がある」
と同じ理屈じゃないかって
批判する記事
を書いていますし。
その考えは、今も変わっていません。
この当時は、あまり取り合ってもらえなかった意見ですが
今では、少しは賛同してくれる人も居るかと思う。

「ブログ主の対応が適切だったら」
と言う人も多いですけど、
でも、
人間って、いつもいつも、
「適切な対応」が出来る訳じゃないでしょう。
散々言ってきてるんですが、
人はそんなに強くない」って思うんです。
だから、
人の弱さとか不完全さに対する
いたわりとか思い遣りとか、愛おしさを
持つ事が、大事なんじゃないかって。


だから
「差別してしまう側」に対しても、
責め立てるのではない文章を
書かないとイケナイなって思う。
「こんな明白な差別の事例が当然ではないなんて」
ではなくて
「それを当然と思ってもらうには、
 何を伝えていかないとイケナイか」
としていかないといけないのかなって。
(若隠居が、そうしなかったから悪い
 って言いたい訳ではないんです。
 じゃなく、自分はそうしようって事で。)
だから、
しばらくは、差別について、
そういう記事をいくつか書くと思います。


・・・続きを読む
posted by めたか at 22:30| Comment(0) | TrackBack(1) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「国際感覚」とネット感覚

しまったぁ!
「かま騒ぎ」撮るの忘れてたぁ!
・・・ま、良いか。
(色々、気力が萎えています)
めたかです。

でも、気力は萎えていますけど、
ネタはホント、溜まっています。
とにかく、なるべく吐き出していきたいと
思います。
(塊については、今日、帰宅したら
 まとめて処理します。)

まずは「ネット万歳」って記事から。
炎上について辛辣な事を書くので
(ってほどでもないけど)
その前に「ネット利用者」に媚を売っておこう
ってセコい思惑で(笑)

ま、そんな訳ぁないですが、
そういう話です。


良く「日本人は国際感覚がない」
なんて言われますよね。
それで、
海外経験の多い人とかが
「海外では(普通)こうなんだ」
みたいな事を、言ったりしています。

でもね、
そういう人の言う「海外」って
海外の中でも、ごくごく一部のみって
思うんですよ。
例えば、世界中のたくさんの国の経験があっても、
そういう人って、
それぞれの国の「ある特定の層」ばかりを
経験してる、みたいになってるんじゃないかって。
世界中の国の人を知っている、
と言っても、
それはみんな生物の研究者だった、みたいな感じで。
で、
それは「国の違い」よりも、
どういう層の人か、の違いの方が
大きい場合だって、あると思うし。

1人の人間が経験出来る事って
やっぱり限界があるって思うんですよ。
特に、世界って広くって
しかも、様々な事があるのに
(日本では、割と均一な社会って言われてるけど、
 そんな国は珍しいって言えるかもしれないし)
その「狭い経験」だけで
分かったような事を言うって
何か、違うって思うんです。

だから、私は思うんですよ。
本当の意味での「国際感覚」って
世界にはホント、色々な事があり、色々な人が居て
自分の知っている事など、
そのごくごく一部にすぎないって事を
ちゃんと実感を持って「分かっているか」
って事じゃないかって。
その多様さを認める事なんじゃ、ないかって。

って事を考えた時に、
ネットって、そういう「感覚」を
身につけるのには、非常に良い場所じゃないかって
思うんです。

と言っても、ですねぇ。
それには「条件」があると思う。
それは、「多様な意見」に触れ合おうとする事。

ネットにはホント、色々な場所があって、
色々な意見が溢れています。
でも、
多くの人は「自分にあった所」のみを
見ている、参加してるんじゃないかって思うんです。

それじゃぁ、「国際感覚」ってふうには
いかないだろうなって。
そうではなく
多様な意見に触れ、ぶつかり合っていく中で
「国際感覚」ってのが身に付いていくんじゃないか
って思うんです。
だから
「ネット」をそういうふうに使っていけば
良いんじゃないかなって・・・
posted by めたか at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「AだからBである」の論理について

さて、
少し時間的・精神的余裕が出来たので
懸案の「論理シリーズ第2幕の締め」を
やってしまいます。

今までは
「AならばBである」の論理について
説明してきました。
だけど、
日本語の文章の中で使う論理として
「AならばBである」というのは
あまり使わないのではないかなって思います。

それより、
「AだからBである」
という「論理」の方が、ずっと使うと思うんですよ。
なので、
今回は
「AだからBである」の論理を
考察していきたいと思います。


###
まず、復習から。
「AならばBである」については前に考察した通りですが、
別の角度から、考察してみましょう。
「AならばBである」というのは
「Aが正しいという条件において、
 常にBが成り立つ」という意味になりますね。
だから、
「集合【A】が集合【B】に含まれ」ないと
いけない訳です。
(含まれてないと、
 Aが正しいのにBが正しくない事例が
 存在してしまう・・・)

という事を踏まえた上で
次にいきましょう。


###
一方
「AだからBである」というのは
「Aが正しい。従ってBも正しい」
という事ですね。
目的として、「Bが正しい」を言いたくて
その根拠として「Aが正しい。」と言う。

という事なので、
「論理学」で言うなら
「AだからBである」は、
次のように分解されるんです。

・Aは正しい
・AならばBである
・よってBは正しい

つまり
「AならばBである」というのは
「AだからBである」の論理の中に
使われているんです!


日常であまり使われない
「AならばBである」の論理を
ここまで丁寧に考察してきた訳は、
良く使われる「AだからBである」の中にも
含まれている「基本の基本」だから、だったんですね。
(つまり、ここまでの考察は
 無駄ではなかったんですよ。)


で、まぁ、
この説明で分かる通り
「AだからBである」の論理をチェックするには
・AならばBである
の部分と、
・Aは正しい
の部分の両方をチェックしないといけないんです。
(案外「Aは正しい」の部分のチェックが
 忘れがち、なんですよねー。)


・間違った仮定からは何でも証明できてしまう


これは、確か、ラッセルという数学者が
言った事だと思うんですが。
(これを主張したところ
 「1+1=2」を仮定して
 「あなたがローマ法王である」事を証明しろ
 と言われて見事に証明したってエピソードが
 あったそうな・・・)

元々
「AならばBである」の論理では
「Aが間違ってる場合」は常に成立する
って事になっているんですね。
ですから
「間違った仮定」からは
何でも証明できてしまうって
なってしまうんです。

だから、
「AだからBである」において
ちゃんと「Aが正しい事」を
チェックする事が、
非常に重要なんですよね!

(ですから、
 前に例とさせて頂いた件では
 「本当に説明不足なのか?」
 を考察する必要があると思う。)



###
考察については、以上です。
論理シリーズ第2幕は、
一応、これで締めと言う事で。
具体例はほとんど無かったですが、
色々な例に当てはめる事ができると思うので、
使ってみましょう。

第3幕は、いつになるか・・・
始めにホームページを構想した時に
考えていたネタは、
だいたい出してしまったので。
他にも「数学の論理で重要な事」は
あると思いますけども
(数学的帰納法、とか、
 背理法とか、場合分けとか・・・)
まぁ、先に他の解説記事の方を
優先していきたいなって思います。
posted by めたか at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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