2005年08月27日

反抗的な男子には時として「殴る蹴る」も必要?

だいぶ体調も良くなってきためたかです。
これなら、明日も大丈夫だな。


さて。
駒大苫小牧の事件に関して
体罰論とすり替わるのは間違ってる
というのは、ホントにその通りだと思うんですけど
でも、
この件に関して
「体罰肯定」的な意見が山ほど出てくるのを見ると
やっぱり、言いたくなっちゃうんですよね・・・
(別館でも、そんな話になっちゃってるし。)

ただ、こういう話は、もう
「スポーツについての話」じゃないなって思うので
こちらに書きます。
で、1つ目は体罰論(苦笑)です。

というのはね、
やっぱり、「体罰は当然だ」みたいな論調が
多いんですよね。
それが行き過ぎると「戸塚ヨット肯定」とかに
なっちゃうんでしょうけども・・・

例えば、私の巡回先にあったこの記事。

高野連、マスコミ、父親、にモノ申す

この記事に、こんな事が書いているんです。
ハッキリ言ってやる。
口で注意して解からない反抗的な男子には
時として「殴る蹴る」も必要である。
キレイ事だけで教育が成り立つなら
誰が苦労するものか。

いや、でもねぇ。
素朴な疑問として思いますけど
それじゃぁ
「口で注意して解からない反抗的な女子」は
どうなんですか?
そんな女の子を教育するには
「殴る蹴る」は必要ないんですか?

女の子は殴る蹴るのは可哀想だから
何とか、別の手段で言い聞かせようと努力する
っていうなら
その努力は、男の子にだって、できるでしょう?
それをやらずに、単に「殴る蹴る」で済ますって
単に安易なだけじゃ、ないでしょうか。
(それとも「分からず屋の女子は放っておくしかない」
 というなら、男子も放っておけば良いでしょう。
 男子には特別にやらないとイケナイってなら
 それは、別の問題がありそうです・・・)


こういう「暴力肯定」の人に読んでもらいたいのが
次の記事です。
体罰は「一方的な暴力」
毎度おなじみ、ジユウノツバサの佐々木さんですが。
まず
「大前提として『体罰は悪』と認識すべき」
というのに賛成です。
「必要だ」とか言って肯定するのではなく
まず「悪い事なんだ」と認める事。
全てはそこから、始まるんだと思います。

その上で、どうしても体罰をするって時は
それでも体罰が必要だというのであれば、
暴力を振るう側は
「自分がどんな非難や処分を受けたとしても、
 この子に解って欲しい事なんだ」
という信念と覚悟を持つべきでしょう。
信念あってこそ
「安易な体罰」は行なわれないでしょうし、
体罰に対する十分な事後説明も
できるというものです。

という事だと思うんです。

佐々木さんの記事のコメント欄に私、書いてるんですが
金八先生で、体罰を振るった回があります。
第5シリーズだったんですが。
「命を粗末にしない」という「約束」を破った
生徒たちに、体罰を振るったんですが
その後、金八は辞表を提出したんです。
つまり
「首を覚悟で殴った」んですよ。
体罰って、それくらいの覚悟でなされるものじゃ
ないでしょうか。
(いや、そこまでの覚悟じゃなくても
 それに近い覚悟は欲しいモノだって思いました。)

あと、「さよなら、小津先生」という
田村正和がやってたドラマで1つ名言があったんです。
「体罰は、愛情じゃない、感情だ」
って。ホント、その通りだって思う。
まぁ
「感情をぶつける」事も良い場面はあるとは思う
だけど
基本的に、それは、独りよがりになりがちなモノで
だからこそ
「事前に、生徒との強い信頼関係が必要」
で、
「事後に、ちゃんとしたフォロー」が不可欠でしょう。


ちょっと重くなっちゃったので
もう少し軽めの、私の考えを追記部分に書きましょう。
###
やっぱり私は「体罰は基本的に悪い事」
という認識でないとイケナイと思います。
ただ、
社会って、全て、良い事ばかりで出来ている
訳じゃないですよね。
悪い事だっていっぱいあって
でも、多少は「大目に見て」世の中は成り立ってる。

体罰も、そういうものじゃないかって
思うんですよ。
確かに「悪い事」なんですけど
「悪い事」を全て、排除しないとイケナイってなると
教育現場が息苦しくなる。
なんで、多少は大目に見ようって。

そうやると
「強い暴力」ってなると、大目には見れなくなる、し
「体罰」について変に開き直る人も
居なくなるんじゃないかって思う。
やっぱり、怪我とかしてしまう程の「暴力」は
体罰として大目に見ようとは思えなくなるでしょう。

その上で
「強くガツーンって行く」って場合は
本文で紹介したように
ちゃんと信念もって、覚悟を持って
行うべきでしょうってのが
私の意見になりますね。


あと
親のしつけ、とかになると
また別の問題じゃないかって思います。
って事は、付記しておきましょう。


8/29日、追記
次に記事が「労務管理」と言う点で
「体罰をする場合」について考察していて
参考になると思いましたので、紹介します。
駒大苫小牧事件と人事管理
たとえば、「鉄拳制裁」も方便としては
あるのかもしれませんが、
やはりそういう過激な手段をとる以上は、
それだけの期待をかけている人に、
それなりの納得を得られるような
配慮とともにやらなければならないのは
当然のことでしょう。
殴る以上は試合に使う、俗にいう
「心中する」くらいの覚悟は必要なわけで、
単に態度が悪いことの見せしめで殴る
というのは最悪です。

しかも、2回めに殴った理由というのが
またお粗末なもので、
「スタミナ対策のためにご飯を3杯
 食べるよう指導していたのに、従わなかった」
というのですからあきれます。
練習などは一緒にやるとしても、
試合に出ない選手にまで一律に
「スタミナ対策」を強要することに
意味があるとは思えませんし
(まあ、これはそう考えるのは
 素人の浅はかさかもしれませんが)、
そもそも試合に出る選手と出ない選手とでは
モチベーションもモラールも全く異なっている
でしょうから、その違いには十分神経を
使うべきところではないでしょうか。
posted by めたか at 23:55| Comment(7) | TrackBack(3) | 教育・学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
体罰された、と本人や親に大騒ぎされるような信頼関係しかない生徒には、体罰したらいけないでしょうね。僕の思うのはそれだけです。
Posted by ひろ at 2005年08月28日 01:06
コメントありがとうございます。

確かに、そうですね。
ただ、「それだけ」だと単なる結果論だと思うんです。
事前に「本人や親が大騒ぎするだろう」と
予想できる場合だけじゃ、ないでしょうし。
(予想できてれば、体罰なんてしてないでしょう。)
Posted by めたか at 2005年08月29日 06:32
めたか様

久しぶりにトラックバックを打ちました。体罰については少し前に別の事件を元に書いていたので、同じことを書こうとしています。

途中で自分が何を言いたかったのか自分で分かりにくくなったのですが、体罰はありえないし、体罰に頼る人間はひとを教えてはいけない、ということが書きたかったことかとおもいます。
Posted by むくのきやすお at 2005年08月31日 00:49
ご挨拶が遅くなりましたが、
TB・リンクありがとうございました。

体罰肯定の方たちが幻想を抱くほど、
暴力って雄弁ではない、と思うんです。
確実に示せるものは
叱る側の感情だけではないでしょうか。

それよりも、高野連は
「暴力絶滅」などとお題目だけ掲げて、
体罰対策は全て各学校任せ。
自分はふんぞり返って何もしない。
「連帯責任」という処分の仕方が、
報告遅れや不祥事隠しを生む構造を作っているのに、
そこには一切手をつけない。
高野連というのは
本当に腹の立つ組織です。
Posted by 佐々木大悟 at 2005年08月31日 02:54
むくのきさん>
トラックバック拝見しました。
「何を言いたかったのか」は
文章を拝見する限りでは非常に明確だと思います。
詳しくはそちらに書かせて頂きますが
論旨に対しても、ほぼ賛同いたします。

佐々木さん>
確かに、仰る通りですね。
暴力って、それほど雄弁じゃないって思う。
(金八のケースも「その覚悟」が
 生徒たちの心を打ったのだと思いますし。)
それに、高野連が糞ってのは、
ホント、その通りですね。
(「その通り」しか言ってないですね(笑)
 でも、ホントにそう思ったんですよ。)
Posted by めたか at 2005年08月31日 22:07
こんばんは

古い記事にコメントさせて頂くことをお許しください。

私は、「口で言って解からない女子生徒」であっても「殴る蹴る」はしてはならない、と思っています。体育会系の倶楽部では女子であっても指導者が鉄拳を振るうことはあるようですが、私は賛成出来かねます。男と女は一緒にはなりません。ある意味、別の生き物です。それと、社会の受け止め方も違います。同じことをして同じように体罰を加えても、男女の違いで社会の見方には差が出てしまいます。

ただし、体罰を含めた厳しい指導が有るもの、と最初から認識した上で入部し、生徒と指導者の信頼関係が成り立っているなら致し方ない、とは思います。程度問題ですが、これは男女を問わず、後で文句を言うのはおかしい、ということになるでしょう。

大切なのは「愛情」です。愛情が無ければただの折檻です。残念ながら、ほとんどの場合は「愛情から」ではなく「カーッときて」というのが実情だとは思いますが。それと、「時として」というのが重要なポイントです。

ピンポイントの指摘と、重ねての説明で恐縮ですが、体罰問題で男子と女子を一緒に並べて比較することは出来ませんし、もっと言うなら「屁理屈」だと思います。

私も中学時代には、体罰に反対して学校側や先生に立ち向かっていましたが、この歳(53)にもなって子育ても一段落すると、考え方も変わってくるものですね。それに、当時の相手だった先生と今は一番親交が深くなっています。お互い、真っ向からぶつかっていたからでしょうか。他の先生だったら今も憎んでいたかも知れません。

とりとめもなく長くなってしまってすみません。気になりましたのでコメントさせて頂きました。
Posted by poohpapa at 2005年10月31日 21:57
「悪徳不動産屋の独り言」の方ですね。
コメントありがとうございます。
古い記事へのコメントも歓迎しています。

まず
「愛情がある」というのはその通りだと思うんですよ。
ただ
「愛情」がエクスキューズになっちゃ
イケナイのではないでしょうか。
「愛情」って一方的なものではないと思う訳で
「愛情があるから良いんだ」というのは
それはホントは「愛情」とは言わないように思うんです。

私が思う、ホントの「愛情」は
殴った方も「痛み」を感じるようなものだと
思うんですよね。
そういう「痛み」ってのを感じていれば
「愛情があるから良いんだ」みたいな言い方は
しないんじゃないかって思うんです。


次に、
「体罰を含めた厳しい指導が有るもの、
 と最初から認識した上で入部」なら致し方ない
という事ですが。
書かれておられる通り「程度問題」ですよね。
どんな理不尽なモノに対しても
「後で文句を言うのはおかしい」とはならない
と私は思うんですけども。


あとは
男女の違い、ですよね。
>ある意味、別の生き物です。
というのは、どうかなって思うんですよ。
もちろん、「違い」ってのは確かにあります。
だけど
「何が違うのか」という事と
「だからこの件は区別すべきだ」って事を
ちゃんと結びつけて考えないとイケナイのでは
ないでしょうか。
単に「違いがある」って事だけで
「別にして良い」とはならないと思うんです。
だって、一応「同じ人間」なんですから。

ただ
「社会の受け止め方」は違うと思います。
だからこそ
女の子の場合を例に出した訳で。
特に「体罰を肯定する」ような
古い価値観の方などでは受け止め方が大きく違うでしょう。
そういう方に「はっとさせる」意図で
例に出しました。
だけど
今は、男女、扱いを大きく変えてはイケナイ事に
なっているんですよ。
Posted by めたか at 2005年11月01日 01:04
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