・知って元々不完全なものだと思う
・「大衆蔑視」とかの人って
知を実像以上に大きく捉えてないか?
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しかし
やり取りのあるブログなんで
消すのもなんだかなぁって感じですが
リンクも無く関連性も薄い記事を
トラックバックして来られても
困るなぁって感じです。はぁ。
あ、どうも、
めたかです。
いやぁ、しかし、
私のTBポリシーとかご存知だと
思っていたんですけどねぇ。はぁ。
それに、
どうせ巡回先ですから
別にTB送って来なくても
読んでるんですけどねぇ。はぁ。
ま、いいや。
(ここで独り言のように愚痴っておけば
伝わるかもしんないし。
文句を言いにいくのも角が立ちますしね。
これで伝わらないんなら
うちのブログをろくすっぽ読んでない
(のに、そんな事をする)って事なんで
次からは消せば良いし・・・)
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本題です。
essaさんが
「finalventさんはひと味違う」
と言って紹介していたのが
次の記事なんですけども。
・単純な話で言うと…
この記事は
「大衆は馬鹿だと」「しかし…」
と続く一連の話の最後ですね。
続きで読んだ方が分かり易いって思います。
で、
「大衆蔑視」とか「知性」とかについては
アカデニズムから降りて
こういう事をしている私としては
興味深く読みました。
でも
私にとって、結構、違和感アリアリな
部分も結構あったので
ちょっと内省しながら書いてみようかって・・・
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私が違和感を感じた、というのは
最初の記事で引用されていた
吉本隆明さんの言葉、ですね。
高度なところを頂点として、
知識の秩序とか系列とかが全部を覆っている
イメージを想定するとします。
僕にはどうしてもどこかに知識の空隙、
あるいは亀裂みたいな空間を生んじゃって、
そこだけは知識の糸が覆いきれない個所が
存在すると思うのです。
言いたい事の方向としては
賛同しているんですよ。
私も吉本さんの影響は、それなりに受けてる人間ですし。
ただ
そもそも「知」に対するイメージ自体が
かなり違ってるなぁって思う。
「知」って、そんなに高度なものかなぁ
違うと思う
「知」ってもっと不完全な
ツギハギだらけなものじゃないのって
思うんです。
だから
「知識の糸が覆いきれない箇所が存在」
って感じより
「覆いきれない所だらけだ」
というのが、正確なトコじゃないのって
思うんです。
「大衆は馬鹿」とか言ってる人って
そういう事を、どこまで分かってるんだろう?
って思うんですよ。
じゃぁ自分はどこまで分かってるのか?
ですよね。
それって別に、吉本隆明じゃなくても
ソクラテスの「無知の知」でも良いですし
割と「知」では常識レベルの話じゃないのかな?
なんか
「知ってスゴい。こんな事も分かるんだ」
って感じるのって
知に触れる始めの段階じゃないの
って思うんですよ。
ある程度、勉強していくと
「こんな事も分からない」という
「知の限界」って事が
どんどん見えてくるって思う。
いや
確かに、その「限界」を越える為に
どんどんと知は進んでいくものでは
あるんですよね。
だけど
それで「どんどん分からなかった事が分かる」
って訳じゃ、ないと思う。
その「限界」を越える為に
膨大な量の「知」が積み重ねられ
それで、やっと少し
「限界が前に進む」程度のものだってのが
一時期でも、知の最前線に居た私の
印象なんですけども・・・
そういう実感を持ってる人間としては
そもそも「知」って
そんな特別なモノじゃないって
思うんですよね。
それを言うなら
「美味しい野菜を作るノウハウ」
を持ってる人とか
「絶好の漁場を知ってる漁師」
だったり
「どこの店で何が安いか」などを
押さえている主婦とか
そういう、様々なノウハウなんかと
同じようなものじゃないのって。
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ここからは
私にとって「知」って何だったか?
を内省しようと思います。
私にとって、そもそも「知」って
逃避の対象だった、と思います。
色々な事から逃避するために
科学にのめり込んでいったって面が
あるかなって。
元々、勉強しか得意な事って
なかったですし・・・
「知」の世界って
そんな「逃避の場所」としては
完璧だったって思います。
「世界を説明する」って意味で
世界と関わる、一方
大学の先生とかは
浮世離れした人が多かったですし・・・
それに
「色々な事が分かっていく/見えてくる」
って事が
何よりも楽しかったんです。
その後
「病院で死ぬということ」
で、頭をガツーンと殴られて
今日の私があるんですけども。
だけど
この本に目覚めさせられたってだけじゃなく
学問自体に「何か違う」って
感じてきていたって事も、あると思う。
ただ
それがなければ
自分は全く違った人間だったかも
って思うんですよね。
なんか、自分の心のうちを
変に露悪しちゃったなぁって感じですが(笑)
ただ
「知」と、こういう関わりをしてきた人間としては
「大衆蔑視」うんぬんって
問いの立て方自体が違和感のあるものなんです。
(性的なうんぬんって言うなら
オタク論での「非モテ論争」の方が
まだ、しっくりくるなぁって・・・)
何度も読みましたが、
「知」ということばで、ひっかかってしまい、
先に進めません。
知、知性、知識はそれぞれ違うような。
めたかさんのおっしゃる知とは、体系のことですよね。
生活の知恵みたいなのも入るのですか?
あぁ、ややこしかったですかねぇ。
「知」「知性」「知識」
確かにそれぞれ違いますねぇ。
元々は、finalventさんの記事への反応だったので
その辺の事については、
あまり厳密に考えてなかったんです。
だけど、ある程度、文脈に即して言うなら
多分「知」とは、学問の集合体のようなもの
そして「知性」とは、その「知」を踏まえている事
って感じになるかなって思うのですが・・・
なので、単に「体系」って事にはならないかなぁ。
「学問」の条件に、入ってくるかもしれないですが。
「生活の知恵」とかは、この文脈では
「知」には入らないかなって思います。
(個人的にはそれも「知」だって思っていますけど)
それが「体系」として編み上げられ
しかも、「第三者による検証」にさらされるシステム
に組み込まれたならば「学問」と言えて
「知」の仲間入りをするって事かなって・・・
(で、そういう意味では「臨床心理学」って
学問と言えるんかな? って疑問は、ありますけど。)
自信はないけど、わかりました。
以下、断片的な感想を。
文脈よりも、めたかさんの考えの方が重要です。
田中耕一さんの記事は力作ですね。
学問をいくらかき集めても、
知恵のある人にはかなわない。
ただ、
実は「田中耕一さんの記事」については
純粋に「技術」だけでして、
鍛錬さえすれば誰でも書ける代物なんですよ、実は。
もちろん
「ちょっとやそっとの鍛錬じゃ書けない」
って自負は、あるんですけどね。
でも、そんな
>知恵のある人にはかなわない。
って程のものでも、ないんですよ。