続きを書くんですが、
その前に、essaさんの方から他の方の反応と合わせてclipされました。
それについてコメントを。
まず、
「自然科学の方法論」を「米国的アカデニズム」として、
次のようにまとめておられるのを紹介しているんです。
「モデル化+数量化=対象操作可能」
これを読んで、
「うーん、やっぱり、自然科学の方法論を
ちゃんと説明しといた方が良いな」
って思いました。
(という意味で、前回書いたように
「まずは、自分に取って答えやすいQ3, Q4から、
もう少しちゃんと答える事にします。」
という順番は合っていたかなって。)
というのは、
この構図で捉えられない自然科学の方法論もあるんです。
自然科学には「数量化」のないものもあるし
「対象操作可能」ではない分野もある。
ミクロ系の生物では、
定量的な議論のないモデルなんて山ほどあります。
「こういう遺伝子産物がこういう事に関わっている」
そういうレベルのモデルの方が、
まだまだ多いと思います。
「対象操作可能」ではない例としては、
分類学なんて、そうじゃないでしょうか。
「実験」より「観察」がメインな分野も、まだまだあります。
(最近の分類学は、DNA配列を比較するので、
そうとも言えないかも、ですが。
動物行動学は、「実験」的なものと「観察」的なものがありそうかな。)
「自然科学の方法論」を全て、
「ニュートン物理学」をモデルケースとする
定式化に当てはめるのには、
無理があると思っているんです。
いや、一部には「当てはめられないものは科学じゃない」
と考えている人もいて
「分子生物学は科学じゃない」なんていう人もいるんですけど。
でも、それって現実的ではないでしょうね。
だから
「公理系」って言い方には、抵抗があります。
そんな大層なものじゃなくて
「仮説」くらいで言いたいかな。
「仮説」と「検証」の繰り返しが「科学の方法論」
そう考えています。
つまり
「仮説」にも階層性があるんじゃないかなって。
生物学で言えば、
一番根っこに「セントラルドグマ」があって、
それと矛盾しない形で
「この遺伝子がこう働く」って感じの「仮説」がある。
もともと言えば、自然科学は
根っこに物理学があって、
その上に化学のパラダイム、その上に生物学、
そういう「大きな階層性」がある。
物理学の理論だけから、全てが導きだせる訳じゃないですしね。
「三体問題」ですら解けない、んですから。
そして、
化学や生物学の「大きなパラダイム」の上に
個々の小さな仮説がいくつもあるって構造で。
だけど、
そういう「小さい仮説」の検証過程が
もっと根っこのパラダイム変更をせまる例もあって、
量子力学は黒体放射の理論の検証から生まれたってのは有名ですね。
生物では、逆転写の発見によって
セントラルドグマの拡張がされましたし、
現在のRNAの働きに関する知見の蓄積から
セントラルドグマのさらなる変更もあるのではないか
って言われています。
「小さい仮説」は、
「その根っこの仮説」と矛盾していなければ、
どんなものでも立てる事ができるんですが、
その検証の過程で「矛盾しない仮説」では
説明できないってなった時に、
はじめて、その根っこの仮説が検証されることになります。
って考えると、
Q4の「蓋然性の処理」も、そんなに単純ではない。
「仮説」には階層があって、1つの階層のみで考えた時に
この「蓋然性の処理の説明」が成り立つ
って考えた方が良さそうです。
自然科学の「評価」の問題
それから「評価」の問題もあります。
圏外からのひとことのコメント欄にあったように、
「その公理系の選択に対する評価は,??
人が下すのではなくて,??自然が下してくれるからです.??」
と言えるのかなって。
というのは、
「評価方法」って、結構、難しいんですよ。
自然科学の論争では
「評価方法について」争っていること、
結構ありますから。
そして、技術の進化によって、
これまで評価できなかった事が評価できるようになる、
というのもありますし。
素粒子物理学って、そうですからねー。
もちろん、
「最終的に自然(対象)と合ってないといけないから」
というのは、その通りですけど、
それは、他の学問でも言えるのではないでしょうか。
対象が、どれだけ複雑かって違いだけで。
(でも、自然科学も最近じゃ複雑な対象を扱い始めている。)
そういう訳で、
自然科学の方法論と言っても、
割と狭く捉えられているんじゃないかなって思いました。
生物のような、まだまだ発展途上な学問に
関わってる人間としては、
「自然科学と言っても、魑魅魍魎なトコもあるですよ」
って言いたくなるんですね。
だけど、
そういう「数量化」がなくったって、
厳密な議論は可能なんですね。
そのための方法論として、
コントロール(対照実験)とかダブルブラインド(二重盲検)とか、
色々と工夫されている訳です。
「言葉の定義を敢えてあいまいにしておく」
なんて方法論、生物学でも考えられない、です。
分野や背景の違う人とも厳密に議論するために、
(生物の世界では、同じ対象に対しても、
分子生物、細胞生物、発生、生理、基礎医学、薬学、等々、
色々な背景から議論されるんで・・・)
とりあえず定義を明確にしたり前提の仮定を設けて、
その上で議論する
(そこで説明しきれなければ前提を疑う)
という形で議論を前に進めて行く、んです。
その方法論を説明したのが、
「「科学」に対する誤解」なんですね。
あ、でも、
「考え方のパターン」というか、発想においては、
文理の違いって、あるでしょうね。
ま、文系で理系的な発想な人もいれば、逆もあり得るでしょうけど。
そして、
発想と言えば、同じ理系でも、
数理物理方面と生物では、また大きく違いますし。
で、
そういう「発想の違い」の多様性は、
保つべきって思います。