論理について、色々と解説していこうって話でして、
その中でも、
私自身にとって一番馴染みのある「数学の論理」の解説を
中心にしていくんですが、
でも、
それだけでは、ないんですね。
このシリーズは、実はかなり野心的な企画でして、
「論理」ってモノを、包括的に捉えるってのを
やってやろう、というモノなんです。
もっとも、
そういった「論理」の基本と言えるのが
「数学の論理」なんですが・・・
(包括的な解説ってのを目指しているから
「論理とは順番」って緩い定義を採用したんです、実は。)
って事で、
今回は「論理にも色々ある」って話です。
まず、今回から3回分は、
ほぼ日の鳥越さんの連載「あのくさ こればい!」の
次の記事を元ネタにさせて頂きます。
・第867回 ニッポンの学力 論理的に考える力に弱さ
いえ、この記事を参考にした訳ではなくて、
この記事を元に色々と考えた事
(そしてほぼ日にメールした事)を元にするって意味です。
前回の解説では
「論理とは順番である」と言いました。
つまり、
ちゃんとした「順番」に並んでさえいれば
色んなものが「論理」と言えたりする訳ですね。
なので、
多くの人には「順番がおかしい」とか
「こんなのが次に来ない」って思えるものでも、
ある人たちには「ちゃんとした順番だ」って思っちゃう、
そういうモノも、あったりするんです。
前々回の
「論理とは、
物事を誰にでも間違いなく同じ様に伝えるためのもの
もしくは
誰もが同じ様に考えるために使うもの」
なんですが、
この「同じ様に伝えたい/考えたい人たち」
というのが、ある範囲の人たちなら、
その人たちの間で共有できる「論理」というのも
あったりする訳なんですよねー。
前にこのブログで書いた
・インターネットと「バカの壁」
という文章で、
「論理って情緒に流されやすい」
とか
「論理って実はどのようにでもいじる事ができる」
って書いたんです。
それは、こういう事です。
普通なら
「こんなものが次の順番に来ない」ってモノでも、
そこに「情緒」の裏付けがあった場合
「ちゃんとした順番」に思えてしまう事が、あるんです。
だから、
同じ「情緒」を共有できてしまう人たちの間で
それ以外の人には理解できないような「論理」が
まかり通ってしまう事が、あるって事なんです。
例として適当かどうかは分からないのですが、
他に良い例が思いつかないので
(良い例があれば教えて下さい)
こんな例を挙げてみましょう。
ナチスドイツの「ユダヤ人虐待」の論理は、
今から考えると理解できないモノだったと思うんですね。
でも、
「ユダヤ人への反感」という「情緒」を共有してしまっていた
その当時のドイツ人には
「ちゃんとした論理」として通用してしまった
という事なのでしょう。
このように
「論理」というのは「ちゃんとした順番」でありさえすれば
良い訳で、
そして、順番が「ちゃんとしている」かどうかを判断するのは
人間な訳ですから、
多くの人間にとって、その判断が共有できてしまえば、
色々な「変な論理」ってのが通用してしまうって事なんです。
実は
今の現状では、「数学の論理」の方こそが
多くの人にとって「ちゃんとした論理」と
判断されないかもしれないって思っています。
私は、数学の論理こそが、最も汎用性のある論理だと
信じていますけど、
それが、多くの人にとって共有されていないって思う。
(そして、情緒に流された「論理」の方を
ちゃんとしてるって思っていそう、なんですよねー。)
そういう意味で、
私のこの「論理についての解説シリーズ」の狙いは、
より多くの人に「数学の論理こそが汎用性のあるモノ」
って理解して頂く為にやっているんですね。
なんか、
便宜的で恣意的な「論理」が幅を利かせ過ぎているって
常々思っていますので・・・
(今、この解説を急いでいるのは
「急がないと」と思わせる事が頻発してるから、なんです。
というか、
今、ネット上でもてはやされてる人たちに
「ちゃんとした論理」じゃない論理を多様してるのを
目にしてしまっているので・・・)
今回は、
先の鳥越さんの記事
に
全く触れませんでしたね。
まぁ、次回は出てきますので。
(それに、今回の話も、本当にほぼ日に書いたメールに
書いてあった事を元にしているんですよ!)