アマゾンって、新譜を予約して買うには
あまり適していないかもしれないですね・・・
どうも、めたかです。
いえ、CD店では発売日の前日に手に入りますけど、
アマゾンだと当日で、
しかも仕事のある身では当日に受け取るのが難しいので。
うん、ちょっと後悔しています。
他の参加者の方々もちょこちょこ書かれていますが、
土曜日は、オフ会をしていました。
小島さん、幹事どうもありがとうご ざいました。
夕方5時スタートだったんですけど、
結局、終電まで飲んでいました。
大阪の方々は帰り大変だったようですが、
一番心配だった方も、無事に家まで 帰れたそうです。
(電車が遅れた事が良かったそうですね。
そういう事もあるって事で・・・
もっとも、私はすっかり酔っぱらっていて、
現場では事態を飲み込めていなかったのですが。^^;;)
って話を枕に持ってきたのは、
今日の記事では「ネットとリアル(現実)」の話を
しようと思っているから、です。
ネットは「バーチャルの世界」なのか?
良く「ネットはバーチャルの世界だ」と言われます。
でも、それは本当でしょうか?
まぁ、疑問系で書いていますので、
「違うだろう」ってのが、私の結論なんですが(苦笑)
とりあえず、順に論を進めていきます。
まず「バーチャルの世界」ってどういう意味でしょう。
辞書的な意味から検討してみましょう。
まず、「バーチャル」から。
バーチャルって、「仮想」って訳するんですが、
「仮想」って何か・・・
とりあえず、一番良く使われるのが
「バーチャルリアリティー」だと思いますので
(「バーチャルな世界」と言う場合、
「バーチャルリアリティー」を想定していると思うし。)
その意味を
辞書で調べてみると、
>コンピューター技術や電子ネットワークによってつくられる
>仮想的な環境から受ける、さまざまな感覚の疑似的体験。
とあります。
ですから「バーチャルの世界」って、
つまり「疑似的な世界」であるって事でしょう。
それで、
ネットって「擬似的な世界」なんでしょうか?
でも、
ネットの向こう側には、確かに「人間」が居るんですよね。
つまり、
「人間が作っている世界」ではある訳で、
それを「擬似的」というのは、違うと思うんです。
多分
「バーチャルな世界」と言う場合、
人工知能とかコンピュータプログラムのような
「人間でないもの」を相手に、人間を相手にしている
みたいになる事を指すと思うんですね。
だから
「テレビゲーム」について「バーチャルな世界で」
とか言うのは、合っていると思うんです。
(恋愛ゲームとかでバーチャルな恋愛
ってのは、それにあたるでしょう。)
インターネットの特殊性って何か?
でも、
「ネットはバーチャル」って言う場合、
「実際に人と会う体験の擬似的なもの」って事を
指して言っているんだと思うんです。
つまり、その「間接性」をもって
「バーチャル」としているんだって。
だけど、
もし、そう言うなら、「電話」とか「手紙」とかも
同じですよね。
何か、間接的なものを介しての「人との対話」じゃ
ないですか。
でも、
「電話」や「手紙」に対して
「バーチャルだ」と言う人は、居ないと思うんです。
(いや、そう言うんだったら、
「ネットもバーチャル」というのも、
合ってるとは思いますけどね。)
ネットというのも、
電話や手紙と同じ「間接的」な人と人との対話ってだけで、
その「間に挟まるモノ」が異なってるだけだと
思うんですよね。
もちろん、
ネットにはネットなりの「間に挟まるモノ」の特徴ってのが
あると思っていますよ。
それは「
ほぼ日を読むのは基本」で紹介した
「インターネット的」で考察されている通りですが。
そして、
その「特徴」によって、人付き合いの仕方ってのは、
変わる場面ってのは、あると思います。
でも、
それを言うなら、「電話」や「手紙」でも、
その特性によってやり方が変わる事もあるでしょう?
電話を例にしますと。
電話って、相手の顔が見る事ができませんね。
なので、相手の表情が分からないですから、
その分、伝わりにくい所があるし、
反応も伝わってこない事も多々あります。
(もっとも、実際に会っていても、
反応の分からない相手とか、いますけどね・・・)
だからこそ、
普通に会って話す場合とは違った「気配りやマナー」が
ありますでしょ。
でも逆に「電話だから」こそ言える事なんかも、
あったりします。
ネットも同じ事だと思うんです。
だから、
ネットの特性は特性として「利用」して、
充分に楽しめば良いと思う。
だけど、
「ネットの手軽さ」を「バーチャル」と勘違いして、
その向こうに人間がいる事を忘れちゃイケナイって
思うんですよね。
あと、
私にとって、
ネットって「気軽に」って所ではないですね。
そうじゃなく、普段にはやらない程「気を使って」います。
というのは、
実生活での会話は、せいぜい数人相手ですから、
どう伝わるかもだいたい予想できますし、
その反応を伺いながら「対話」する事ができますよね。
でも、
ネットの方では、伝える相手の数か全然違うでしょう。
実生活でも、大勢の前で話すとかだと、
それなりに緊張もするし気も使うじゃないですか?
それがまた、例えば社内とかの「身内」ならともかく、
外の世界で「発表」しなければならないってなると、
それなりに準備もして考えていかないと
とてもじゃないけど、出来ない。
私にとって
ネットって、そういう場所だなぁって、思っているんです。
(これは「私にとって」であって、
人によって思っている事、感じている事は違うでしょう。)
つまり、ですね。
ネットにはネットなりの「特徴」というものがある、
それだけの話だって、思うんです。
それに対し
「バーチャル」って言うのは、
幻想に過ぎないのではないかなぁって思う。
「気軽に」色々とできるって言うけど、
その向こう側では、
確かに人間が居て、笑ったり怒ったり涙を流したり
しているんですよね。
それは、今これを読んでるあなたが
色々な「感情や思い」を抱くのと同じ事なんですよね。
そこに想像力を持てるかどうかってのは、
大きいって思うんです。
そこを「気を遣いたくない」と言う人は、
ひょっとすると、コンピュータか何かを相手にしている気に
なってるんじゃないかなぁ。
私には、そんなふうに思っちゃいます。
(もっとも、
私も「ネットで不必要なストレスをあまり感じたくない」
ってのはありますね。
だからこそ、事前に色々と気を配るんですが・・・)
というか・・・
これって、良く指摘されている
「自分の仲間以外の人間は『風景』と同じ」
とかいう「当世の若者気質」と関連づけて論じる事ができる
そういう話なのかなぁ。
(要するに「自分の身内」の人間以外は
人間とは見なしていない、
だから電車の中で化粧もできるし電話もできる、
みたいな話です。反論・異論はあるでしょうが・・・)
って事で、次の「ネット内のコミュニティー」の話に
繋がるんですが・・・
ネット内でのコミュニティー
インターネットって、
自分と同じ趣味趣向の人、気が合う人、近い価値観の人を
探しやすい世界だなぁって思いますね。
これは、ネットの素晴らしい特性の1つと言って良いと思う。
この特徴によって、
ネットでは、近い趣味趣向・価値観の人が集まる
「コミュニティー」が作られやすいって思う。
実際に、インターネット上では、
既に、たくさんの「コミュニティー」と言える所はあります。
しかし、
このコミュニティーに対し、
外部の無関係な人間がやってきて、その場を「荒らす」事が
良くあるようです。
それって確かに不快なものですよね。
ただ、だからと言って、
「異なるコミュニティー同士は触らずに
互いに無干渉でいきましょう」
というのは、私は違うと思うんです。
と言いますのは・・・
ネットで価値観が蛸壺化していく事に対し
危険ではないか、と指摘する議論があるんですよね。
詳しくは、昔書いた記事で取り上げて論じていますので、
そちらを読んで下さい。
・
インターネットと「バカの壁」ここでも取り上げた意見では、
ネットにおいて、異なる価値観をことごとく排除していく事は
「民主主義の敵」ではないかって
言われ方がしているんです。
だから、
ちょっと冷静になってほしいんです。
コミュニティーが没交渉になり価値観が蛸壺化していく事が
果たして良いことなのか?
考え直して見て欲しいんですね。
1つのケーススタディー・ゴーログの場合
で、
この件を考える1つのケーススタディーになるのではないか
って思うことを、過去に経験しているんですよ。
それは、木村剛さんのブログ(ゴーログ)での
「BLOG of the Week」のルールについての事。
詳しくは、
「
閉じてるコミュニティーと開いてるコミュニティー」
と
「
「BLOG of the Week」の新しいルールを支持します」
を読んで欲しい
(とりあえず、私の過去記事だけを貼っていますが、
そこからリンク・トラックバックを辿って
他の方の考えも読んでいただきたいです。
色々な参考になると思います。)
んですが、簡単に振り返ると
ゴーログの読者の間では普通にされていた「ルール」が
外部の人から「著作権上の観点」「ネットの常識の点」
でオカシイのではないか、という指摘がされたんですね。
それに対し、どう対応すべきかって問題です。
(で、
木村さんは、ブロガー達の意見を賢明にも取り入れて
ちゃんと「外の世界」も留意した「新しいルール」に
変更されたんですよね。)
私は、こういう態度が大事なのではないかって
思うんです。
というのは、
ネットって「開かれた世界」なんですよね。
つまり、
全然関係のない人も見る事ができるし参加できる、
そういうものでしょう。
ですから、
「外の世界」からの意見を全て拒絶するってのは、
我がままだって、私は、思う。
それなら、閉じた世界でやってなよって思いますよ。
(mixiとか、MLとかね・・・)
あと、
そういう「コミュニティー」に、
後から「新しい人」が入ってこようとする場合も
当然ある事でしょう。
ネットは「開かれた世界」ですからね。
その人は当然「暗黙のルール」なんて知らないし、
だから、「暗黙のルール」に反する事だってあるでしょう。
また、
知らされた時に、疑問を持つ事もあると思うんです。
その際に
「ルールを守らなかった」事を非難したり、
「このルールがイヤなら入ってくるな」というのは
どうなの? って・・・
「荒らし」みたいなのは否定して当然です。
でも、
ちゃんと耳を傾けるべき事は傾けるってした方が
「開いているコミュニティー」だと思うし、
少なくとも私は、その方が好きですね。
(強調しておきますけど、
これはあくまで「私の好み・趣向」ですからね。
閉鎖的なのが好きって人を
否定するつもりは、ないですけどね。
ま、「なんでネットなの?」ってのは思いますけど。)
で、結論なんですが・・・
それで、
この記事の「結論」ですが
冒頭に「オフ会」の事を書きましたよね。
実は、それが「結論」なんです(笑)
知らない方のために簡単に「言葉の説明」をしますと・・・
「オフ会」というのは、
ネット上で知り合った人間同士で、リアルで(オフラインで)
飲み会なんかを行う事です。
ネットを介する「対話」は「オンライン」であり、
それを介さない、リアルで会うってのは
「オフライン」であるって事から、
そういう飲み会なんかを
「オフラインパーティー」とか「オフ会」とか
言っているんです。
私のつたないネット経験では、
オフ会こそがネットで一番面白く楽しい事だったり
するんですよねー。
ネットで気が合う人たちとの、美味しいお酒を飲む楽しさ。
また、ネットとは違った面を見せてくれる人とかもいて、
その楽しさも格別ですし。
ネットで知り合った仲ですから、
年齢の違った人たちとも「対等の仲間」として
話をできる事も、なかなかに無い経験ですしね。
だから、
ネットで関わり合う人に対して、
「いつか、この人ともオフ会で会うかもしれないな」
(まぁ、会わないかもしれないし、
その可能性の方が大きいですけどね)
って事を考えのうちに入れておくと、
例えば酷い事なんて、言えないと思うんですよねー。
それに、
オフ会をすると「ネットの向こうに人が居る」という事を
実感を持って感じる事ができるようになるんですよ。
ある意味では、ネット上での(モニター上での)
「記号」にすぎなかったハズの相手が、
実際に、目の前に居る訳ですからね。
と言う事で
「オフ会をする」と言う事、
少なくとも、その可能性を念頭においている事、
それだけで、ネットへの関わりってのが
随分と「人間的」になるって
思うんです・・・
でも、
その上で大事じゃないかって事として。
その「オフ会」を、コミュニティー内部でやるだけじゃなく
それ以外の人とも「会う」可能性があるんだ
そう思っておく事が、大事かなって思うんですね。
「この人と会うかもしれないな」って人に対して
酷い事なんて、言えないじゃないですか。
ですから
反対意見をコメントしてくる人とも「オフ会をしよう」
って方が、面白いんじゃないかって、
思っていたりするんです。
(だから、
○○で暴れている××さん、オフ会に参加しませんか?
私の所では、歓迎しますよ(笑))
#↑様々な影響を考えて、一部、伏せ字にしましたが、
#それぞれ、色々な固有名詞を入れてお楽しみ下さい。
あと、
この系統の話題なら、下記記事も面白かったですね。
・
リアルな世界とインターネットはどっちがリアル?###
追記部分はmo_uraさんへの「お答え」です。