2006年09月22日

坂東氏の猫殺しの件で毎日新聞に記事が

ちゃんと考えられていないので
記事の紹介だけ。
子猫殺し:告白の坂東眞砂子さんを告発の動き−−タヒチ管轄政府「虐待にあたる」

この件、時間が作れなくて
放ったらかしになっていますが
色んな事を思っています。
結構、複雑な問題だと思います。
(そういう意味で、毎日の記事の解説は
 良いと思います。)

ただ、
坂東氏の一連のコラムは
定期的に図書館に行ってチェックしています。
私の体制が整えば
論じる事ができるように・・・
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2006年09月18日

祖母の死去で「老い」について考えた

祖母が死にまして
葬式を行ったり、色々していまして
しばらく実家に戻っていました。
(それで、しばし更新が止まっていました。
 コメントの返事も遅れていました)

別に落込んでるとかはないですよ。
ご心配、ご無用です。
(その辺の心理は、下に書きます。)

そういう訳で
ネットからすっかり離れていました。
ブログとかも全然、見てないですが
色々、思う事、ありました。
ちょっと陰鬱な内容でもあるので
読みたい方だけ・・続きを読む
ラベル:生命倫理
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2006年09月02日

あなたの選択・・・思考のレッスンとして(子猫殺しの件)

ちょっと今日は、
変わった事をやってみましょう。
(と言っても
 昔やった事の焼き直しだったりしますが・・・
 ここでもやっていたので3回目か・・・)


○あなたは、どちらを選びますか?
どちらの方が「自然」に思いますか?
どちらが「許せる」と思い、
どちらが「許せない」と思いますか?

A)子猫を育てる事が出来ないので
 ネコを去勢手術して子供が産めなくしてしまう

B)子猫を育てる事が出来ないので
 生まれてきた子猫を殺してしまう。


○自分の子供だったら
あなたは、どちらを選びますか?
どちらの方が「自然」に思いますか?

A)遺伝子が原因の重い病気になってしまうので
 受精卵の段階から遺伝子治療を受けさせて子供を産む

B)遺伝子が原因の重い病気になってしまうけど
 生まれてから重い病気を抱えた子供と生きていく


○では、これなら
あなたは、どちらを選びますか?

A)遺伝的要因の強い重い病気にかかったので
 遺伝子治療を受ける(効果は絶大)

B)遺伝的要因の強い重い病気にかかったが
 従来の治療を受け続ける


○では、こういうのはどうですか?
あなたは、どちらを選びますか?
あなたの子供だったら、どちらを選びますか?

A)重い病気にかかったので臓器移植を受けた

B)重い病気だったが臓器移植は
 「自然の摂理に反する」と思ったので受けない


○もうちょっと極端にすると・・・

A)治療の上で血液が足りなくなったので
 輸血を受けた。

B)治療の上で血液が足りなくなったが
 輸血は「自然の摂理に反す」ので受けない。


○じゃぁ、提供するというのでは、どうでしょう?

A)死んだ後、様々な臓器を提供する。
 (心臓、角膜が主ですが、他の臓器も)

B)臓器の提供はしない


○一方、こういうのは?

A)生きている時に、骨髄を提供する。

A')生きている時に、腎臓1つを提供する。


○話をがらっと変えてみましょう。
こういうのはどちらの方が許せますか?
許せないなら、どうして?

A)オリンピックで勝つ為に
 ドーピングで筋肉を増強する

B)オリンピックで勝つ為に
 お金をかけて審判を買収する


この「ドーピング」というのを
「血液ドーピング」とか「遺伝子ドーピング」とか
また
「審判を買収」を、「服や靴などを進化させて」
とかに変えて見ると、どうでしょう?
結論が変わったとしたら、それはどうして?


○では、こういうのは?
あなたはどちらを選びますか?

A)オーディションに受かるために
 整形手術をした

B)オーディションに受かるために
 プロデューサーに体を売った

この「体を売った」を
「買収した」に変えたとしたら?
「整形」じゃなく
「遺伝子治療で肌をキレイにして」なら?
(まだ、そんな技術はないと思いますけど(苦笑))


○またガラッと話題を変えてみましょう。
どちらの方が良いと思いますか?

A)世界的な食糧難になったので
 農薬をたくさん使って農作物を増産した。

B)世界的な食糧難になったので
 遺伝子組み換え作物を使って農作物を増産した。

これだと「個人的な選択」にはならないですね。
なら
「生き残る為にどちらを食べますか?」
にしてみたら?
または「子供に食べさせるなら?」では、どうでしょう?



・・・「選択」はこの辺にしましょうか。
追記部分には、思う所を書きます。
(読む必要はありません)


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ラベル:生命倫理
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2006年08月28日

気が進まないけど「ネコ殺し」の件・・・

先日書いた記事で
「サイエンス・コミュニケーター」
の事を
「サイエンス・ファシリテーター」
と書きまつがえてしまっていました。
いや、
それ自体は「単なるまつがい」なんですが
今の私の読書傾向が現れてしまってるのが、イタいなぁ。
(興味のある人は、自分で調べてね)

この話題については、
「なんか、ある小説家が猫を殺して
 それを2chとかネットで糾弾されている」
みたいな事自体をどこかで聞いていて
関わりたくないなぁって思って
スルーしていました。
まず
「ネコ殺し」自体が「キモっ」だし
それを大勢で「私刑」してる事も
私には耐えきれない事でもあるし・・・

でも
いつもチェックしてるhideakiさんトコ
essaさんトコ両方で取り上げられていたので
読んでみたんですが・・・


えっと・・・
まず、この件は、非常に生命倫理的な話題だと
思います。
だからこそ、私はとりあげる責務があるだろう
と言う事で、
こうやってエントリを上げているんですが・・続きを読む
ラベル:生命倫理
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2006年05月25日

「対話」の心づもりはあるんです・・・(生命倫理について)

サイドバーでリンクしている
最相葉月さんのサイト
受精卵は人か否か
は、長い間、更新停止になっていましたが
その総決算とも言うべき著書が出ていたんですね。
(昨年末か。余裕の無かった時期だわ・・・)

その発売のご挨拶
サイトに公開されていました。
それに対する遅レスです。

そう。
私も、生命倫理に、いえ、生命科学に
今もっとも大切のなのは「対話」だと思っています。
だからこそ
私はこのブログの前身のサイトを立ち上げたんです。
(それだけではありませんが
 主たる動機の1つではあります。)

ただ
生命倫理は、とても微妙な問題なので
一気にやろう、という訳ではなく
少しずつ、少しずつやっていこう
そう思っています。

あと
私自身が思うのは
最相さん自身の「いやな感じ」を
ぬぐい去る事を目的としなくても良いのでは
という事です。
少なくとも私は、ぬぐい去る事を目的には
対話をしようとは思わない。
最相さんの「いやな感じ」のような
言葉に出来ない、しにくい
微妙な感情や生理的なもの、こそが
個人が問題を考える「出発点」だろうと
私は思っているから。
だから
個人個人の微妙な感情を、大切に抱えたまま
分からなくなった時は、その微妙な感情に立ち戻って
微妙な感情と相談して考える、というように
進めていって頂ければ、って思うんです。
(もちろん、そうしなきゃイケナイって訳じゃない
 んですけど
 私は、そうあって欲しいと思ってる。)


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2005年07月15日

治験の仕組みってこうなってる(生命倫理特集「治験について」)

今回は、治験のシステムについての話をします。
この特集、『特集・治験』と銘打ってるハズなのに
今まで全く治験の話が出てきませんでしたね。
それって、どうなの? って思っていた方も
おられたかもしれません。
今回の話を、本当なら最初にするべきだって。

これまで治験の話をしてこなかったのには
訳があるんです。
それは、1つには、
特集の説明の所でも書いたように
治験だけの話をするつもりじゃないってのがあります。
「治験だけでなく、生命倫理全体に関わる話がしたい」
というのが、この特集の狙いですので。

もう1つの理由は、ですねぇ。
実は、治験のシステムについての情報提供は、
ネット上にも、既にいくつもあるんですよ。
Yahoo! のカテゴリを見ると
製薬企業が説明しているものや、
Yahoo! 自体が作っているページも紹介されています。
そういうものと、一線を画したい、
というのがあるんです。

製薬企業さんなどが、こういう情報提供をすることは
意味あることだって思います。
ただ、その「動機」というものを考えると、
「治験への理解を求めたい」
とか
「治験に参加する人が増えて欲しい」
というものだって思うんです。
そういう「動機」を否定するつもりはありません。
製薬企業さんにとっては重要な問題でしょうから。
でも、
そんな「動機」で情報提供をする場合、
どうしても、治験に「理解を示してもらう」ためには
都合の悪いこととか、誤解を招きそうな事は
ぼやかしてしまうって思うんです。
(現に、そうなってしまっているって私は思う。)

私は、そういう事はしたくはないって思っています。
だから、
今回、治験について説明していく事で
ひょっとすると、治験に参加しようという人は
減ってしまうかもしれないって、思っています。
それは、ある意味では「困ったこと」ではあるんですね。

それでなくても
日本人は治験に参加しようという人が少ないそうなんです。
だから、
現在の日本では、治験がだんだん行われなくなっていて
その対策が真剣に考えられている事も知っていますし、
その重要性も、私は理解しています。
しかし、
多くの人たちに治験に参加してもらう事が
本当に「良いこと」なのか?
というのに、私は自信が持てないんです。

よくあるんですよね。
「一緒に考えましょう」と言いつつ、
特定の答えが既にあって、
そこに誘導しようってしているものが。
「メディアリテラシー」なんてものを
このブログでたくさん書いてきた私としては、
そういう事はしたくないし、族担したくもないんです。
(だから、私のこの文章も、
 そういうものになってないか
 ちょっと疑いつつ読んで頂きたいんです。)

もちろん、
私は「分からない」とは言っていますが、
自分なりの「意見」というのは、持っていますよ。
でも、
それが「正しい」とは限らないって思っているんです。
今後、色々な事で、その「意見」が変わるだろうし、
また、それが万人にとって「正しいもの」でも
ありえないだろうと思うんです。

だから、
私自身は、私の知っている情報を提供して
読んでいる人に、考えてもらう「材料」に
してもらいたいなって思っています。
なので、
そういうものとして、読んで下されれば
嬉しいです。


###
「治験」とは何か、
堅い言葉で定義すれば
「開発途中の薬が人間にとってどういう影響があるか、
 本当に効果があるかどうか、などについて
 実際に人間に投与して調べること」
となります。

まどろっこしいですね。
ぶっちゃけて言えば、
治験とは要するに「人体実験」です。

こんな事を言えば
何か物凄く悪い事のように思われるかもしれません。
何か、ショッカーのような悪の組織がやること
みたいに感じた方も、おられる事でしょう。
それだけ「人体実験」という言葉はショッキングです。

ただ、
「物凄く悪い事のように感じる」というのを
強く否定はできないって思うんです。
だって、
いくら触りの良い言葉で言いくるめたとしても
人間にどんな影響があるか分からないものを
誰かに飲ませて調べる訳ですから、
それは「人体実験」に変わりはない訳です。

ただ、そんなに大層に考えなくても良いかもしれません。
こんなふうに考える事は、どうでしょう。
例えば、
雑誌なんかで新しいダイエット法が紹介されていました。
それって、ホントに効果があるの?
なんて疑問に思っていた時に
身近な人が、そのダイエット法を試したとすれば
「どうだった?」って聞くと思うんです。
または
誰か知ってる人が、その新しいダイエット法を
試してくれないかな
なんて思う人も、居るかもしれません。
これって
「身近な人を実験台にして効果を試している」
って、言えるかもしれないでしょう?

ダイエット法でなくても、
他にも、花粉症に何が効くか、みたいな話でも
こういう事、多いと思うんですね。
逆に
「自分を実験台にして」色々なものを試して
周りに人に、その結果を色々話す
って人も、いっぱい居ますよね。

そういう、カジュアルな意味での「人体実験」なら
結構、気軽に行われていると思うんですよ。

それを、もっと系統的に行うのが
「治験」だって、言えるでしょう。
また、前回も話したように、
漢方薬って、長い長い人体実験の蓄積の結果って
考える事ができますね。

そういう意味で、
それほど大げさに怖がる事でもないかもしれません。
だけど、
なんだかんだ言っても「人体実験」である事には
代わりはないとも言えるでしょう。

ですから、
ここが重要なポイントなんですが、
「実験台」にされる人間の
人権が守られる必要があるんです。

先に述べた「カジュアルな人体実験」では
自分の意志で、そういう「実験」をやってる訳ですよね。
だから、
イヤなら辞めれば良いし、
ヤバイと思えば止める事もできる。
無理矢理にさせられたなら、
つまり「お前、アレが効果があるかどうか試せ」
なんて強要されたら
イヤですし、問題ありますよね。

自分で自分を実験台にして、ちょっと試してみるのと
自分が「実験台」にされるのとでは
大きな違いがありますでしょ。
だから、
「実験台」にされる人の人権が守られる事が、
何より大切な事なんです。
「実験台の人」が、自分の自由意志で
参加したり辞めたりできるって事は
「人権が守られる」という1つのポイント
でしょう。

という事で、
治験のシステムについて
1つ目の重要なポイントは
「人権が守られるためのシステム」である
という事なんです。
色々な、七面倒くさいシステムは、
基本的に、治験者(つまり実験台の人)の人権を守るために
用意されているものと言えるんですね。

例えば、
1回目で説明した「インフォームド・コンセント」は
治験者の人権を守るために、考えられた事なんですね。
「インフォームド・コンセント」は
歴史的にも、治験から始まったものなんです。

ただ、
1つ、重要点がありまして、
治験では「書面による」インフォームド・コンセントが
義務づけられているんです。
単に「口頭」で行うだけなら
「言った/言わない」に
なってしまう可能性もあるでしょう。
だから、
ちゃんと「書面で意志を表明する」事が
必要とされているんですね。
これがないと、治験として認められないんです。
それで調べた薬が、国に承認されないってなるんです。

そう、ここで、
治験のシステムについての2つ目の重要ポイントが
出てきました。
それら「承認されない」という事。

つまり、
「薬」というのは、国から承認されないと
売ったり使ったりすることができないものなんですね。
そして、
新しい薬を国に承認してもらうために
必要なこと

それが「治験」なんです。

「治験」についてのポイントの2つ目は
治験は、調べるための実験、だけではなく
国に認めてもらうための実験である
という事です。

薬は、命に関わるものであります。
また、
それだけ、危険なモノでもあるんでしたね。
そして、
もう一つ、薬には
「国民保険料」という「公的なお金」が
使われるものでもある
んですね。
病院で治療を受けたり
薬を処方してもらったならば
「健康保険証」を持っていくと
「3割負担」で良かったんですよね。
(そして、残り7割は保険料から支払われます。)
つまり、
病院の薬って、公的なお金で買われる物だ
って言える訳です。

だから、
どれだけ良い薬だとしても、
「国の許可」のない薬は販売もできませんし、
医者が使う(処方する)事も、できません。
ちゃんと、国が決めた手続きを経て
承認されたものだけが「薬」と認められるのです。
その為に必要な手続きの1つが「治験」なのです。

治験は、「国に認めてもらうための実験」ですから
国によって、厳格に決められた手順で
進めないといけません。
イイカゲンにすると、認められないですし、
当然、人権にちゃんと配慮していない実験をしても
認めてもらえなくなります。

そうやって、厳重に管理されているのが
「薬」の世界なんですね。
それは、前回に述べたように
「毒」にもなり得る、リスクのあるモノであり
命にも関わるものだから、なんです。

だから、
昨年(2004年)、ドンキホーテが薬を扱う時に
厚生労働省が「待った」をかけた事が
大きく批判されたのですが、
私は、それは一方的な批判だと思っていました。
というのは、
それだけ「薬」というのは、厳重に管理されるべきもの
だからです。
(逆に、ちゃんと管理されていなかったなら
 国に「管理責任」が問われる事になるもの、でしょうし。)
もっとも、だから「認めるべきじゃない」
って言いたい訳ではないんです。
そうではなく、「慎重さ」は必要じゃないかって
思うんです。
(だから、
 実際に「テレビモニタ」を介した場合
 どういう問題点が出るか、を検討するとか
 限定的に、試験的な認可を与え
 一定時間後に改めて検討する、などの処置を
 取るべきって考え方も、できると思う。
 もっとも、
 しばらくして全面的に認めたそうですけどね。)


###
さて、
ここからは、実際の「治験のシステム」について
説明しておこうと思います。
ここまで、長かったですねぇ(笑)
でも、
「実際のシステム」について知ることよりも、
「背景」について知ることの方が
普通の人にとっては、ずっとずっと重要だと私は思います。
それで、
「背景」に関しては、もう充分に説明してきましたので
もう、ここから下の文章は、
読んで頂かなくても良いってくらいに思っているんです。
(ここまで長かったですしね(笑))


それでも実際のシステムについて知りたいって方はどうぞ
posted by めたか at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月15日

「臨床試験」をネット公開

電車の中で携帯メールをするのは結構なんですが
それで機嫌を損ねて
周囲に険悪な雰囲気をまき散らすのは
やめて頂きたいなぁ。
めたかです。


さて、前に続いて、これも
「新しい時代の流れ」を感じさせるニュースです。

全国立大病院協力:
 「臨床試験」をネット公開 偽装防止へ


時代の流れとは言え、
もう、こんな事になってきているんですね。

「臨床試験」というのは
今、このブログで連載している「治験」と
ほぼイコールだと思ってください。
(厳密には違っていて
 「臨床試験」は、
 薬の発売後の調査も含まれるんですけど。)

元々、治験の情報については
治験をやっている機関が
少しずつ、公開するようには
なってきていたんですが、
全国の大学病院を統合する機関で
その情報を集めて公開する
(まぁ、集めるんじゃなく、
 登録するための機関って形ですが)
というのは、
これが機能すれば、画期的だと思います。

実は、この辺の話って、
私はあまり強くなくて、
なんで、治験についての特集でも
必要だと思いながらも、
取り上げない事にしたんですよ。
なんで、
ちょっと注目してみようと思います。

参考:大学病院医療情報ネットワーク研究センター
(ニュースに出ていたホームページです。)


・・・しかし
posted by めたか at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月02日

クスリって何ですか(生命倫理特集「治験について」)

「クスリ」とは、逆さから読むと「リスク」になります。
つまり、
「クスリ」とは常に「リスク」が裏返しにあるものです。

私は薬学部の出身ではありませんので知らないのですが、
きっと日本中の大学の薬学部で、
このシャレが使われているんだろうなあ、と
想像しています。
というのは、
このシャレは、実は薬の本質をついたものなんです。

ってな話を今回はするので、
肩の力を抜いて読んでいただければ、と思います。
今回は、そんなに深い内容はありませんから。
(濃い内容は、次の次、くらいかな?)


薬ってそもそも、何なのでしょう?
教科書とかなら
「薬にはこういう種類があって・・・」
みたいな話になるのでしょうけど、
ここでは、歴史的な話から入りましょう。

今みたいな医療がなかった昔、
病気になったら人はどうしていたのでしょう?
基本的には
「休んで自然に治るのを待つ」しかなかったと思うんです。
薬どころか、まともな医療自体、なかった訳ですから。
でも、
病気って、休んでいれば自然に治るものばかりでは
ないですよね。
その場合は、治しようがなかった事でしょう。
それでも、何とか治したい、として、
人はきっと、色々な事を試したと思うんです。
まじないや呪術に頼ったりもしたでしょう。
普段しない事をしたり、
普段、飲食しないものを食べたり飲んだりもした事でしょう。
普段は食用にはしないような、不味い草や木、
動物の骨や角とか、石なんかもすりつぶして飲み込んだり、
他にも、びっくりするようなゲテ物や変な物を
口にしたり、したんだと思います。
病気を治すために必死ですから、
普段なら考えられない変な物でも試した事でしょう。

それが「薬」の始めだったと思われます。
現に、漢方薬などでは、
上記のようなものが材料になっています。
それは、誰かが、そういう「変なもの」を
病気を治すために試してみた、という事でしょう。
その中で、たまたま効いたものが
子孫に伝えられ、
子孫が「同じような病気」になった時に
その「物」が試される事になる。
そうやって子孫に伝えられた「効く物」には
偶然に、別の理由で「効いたように見えた」物も
数多くあったと思います。
そういう物は、子孫が再び「試した」時には
効かなかった事でしょう。
でも「本当に効く物」なら
子孫の病気にも効いたでしょう。

そのようにして、
長い歴史の中で、色んな物が、何度も繰り返し試され、
たくさんの人の経験から、効く物が残っていった。
昔の「薬」は
そのようにして形成されていったと想像できます。

漢方薬は、そのようにして出来た「薬」の
代表例でしょう。
漢方薬の「材料」には、
薬草や、普段は口にしないような
「変な物」も、多く使われていますね。
それは、
昔の人たちが、病気を治すために必死に、
色々なモノを試した証だと私は思っています。


###
ただ、
ちょっと気になりませんか。
どうして、そういう「変な物」が
病気を治すのに効果があるのでしょうか。

その「理由」は、
個々の薬によって、実は異なっていますから、
本当は、1つ1つ具体的に説明しないといけないんです。
でも、
この稿でその手間はかけられませんから
ここでは大雑把な事を書きましょう。

1つは、
普段は食べられないような
「栄養のある物」を食べて元気になる
という事があると思います。
栄養を充分に補給する事によって
弱った体に病気と闘う力を与える。
それは、体力を付ける事もあるでしょうが、
精神的な効果の方も、あったと思います。
一方、
健康な時に飲むと体を壊しそうな物も
病気には効果がある事もあるでしょう。
それは、
病気とは、「体が異常な状態」であるから、
「異常な物」が、「異常を正常に戻す」役割をする
という事なんだと思います。

こちらの方の「メカニズム」については、
後ほど、もう少し詳しく検討します。
とりあえず話題を、「薬の歴史」に戻しましょう。


###
薬の歴史は、基本的には先ほど説明した「流れ」で
進化してきました。
その「流れ」が、近代のヨーロッパで大きく変わります。
ちょうど18世紀頃、
薬を探したり作ったりするための
画期的な変化がいくつも起こったのです。

1つは、動物実験が行われるようになった事です。
色々な物が、薬として効くかどうかを
先に動物で調べてから、効果がありそうな物を試す。
その事によって、より多くの種類の物を
効率的に試す事ができるようになりました。

次に、「分析化学」が発達した事です。
それによって、
今までの、薬草などの「薬」が分析され、
どの成分が「薬」として効いていたのかが
調べられるようになりました。
この事で、「薬」の効く成分が「化学物質」として
決定できるようになり、
「効く」成分だけを抽出した
「より効く薬」が作られるようになりました。

最後に、有機化学の発達が挙げられます。
それによって、様々な化学物質を合成する事が
できるようになりました。
それは、つまり「薬」となるかもしれない
「変な物」の種類が、飛躍的に増えた事を意味します。
「動物実験」によって
病気に効くかどうかを「効率的に」調べる事が可能になった
その事と合わせて
「薬」を、より多くの中から探す事ができるようになり
「薬」の進化が、ぐっと速度を増す事になったのです。

現在の「薬の開発」も
基本的にはこの延長上にあります。
様々な、生き物・鉱物などの「天然物」や
合成した化学物質の中から
病気に効きそうな物を探し、調べ
「効いた物」が薬になる。
この過程を、より効率的に、システマティックにする
「新しい手法」はありますが、
根本的な変化はありません。
天然物を分析する技術は、どんどん発達していますし、
より多くの種類の化学物質を作る技術も出来てきました。
動物実験の方法も発展し、
色々な病気の症状に対応する動物が準備できるようになり
様々な病気の治療法を動物で試せるようになりました。
こういった「進歩」はこれからも続くでしょう。
だけど、
基本的な「方法」としては
根本的には同じと言って良いと思います。

(実は、インターフェロンやインシュリンなど
 この流れ上ではない「薬」もありますし、
 抗体医薬、RNA医薬なども
 研究が進められていますが、
 まだ主流ではありませんので
 ここでは割愛します。)


###
さて、
この「薬」の歴史から学べる事があります。
それは
「薬とは異物である」という事です。

もちろん
「異物」ではない薬もありますね。
先に書いたとおり、
「栄養を充分に補給する物」もありました。
でも、それは
今では「栄養剤」に分類される物なので、
ここでは厳密な意味では「薬」ではないと
考える事にします。
そうではない「薬」は
基本的には、体にとって「異物」なんです。

だから、
「薬」は、体にとって、普通なら良いものではありません。
ただし
病気とは、体が異常な状態になっている事なので、
それを元に戻す働きを、する事になる物なのです。

人間の体は、実に精巧にバランスが保たれています。
例えば
体温が高くなると、体温を下げる事が起き、
体温が下がると、体温を上げる事が起きます。
そうやって、体温を一定の範囲に保っているのです。
(このような人間の体の仕組みを
 『ホメオスタシス』と言います。)
このバランスが崩れたモノが「病気」であり、
崩れたバランスを修正するのが「薬」なのですから、
体が正常な時は、異常にするように働く場合もあるでしょう。
逆に、正常を異常にするくらいでないと、
「異常」を「正常」に戻す力もない、
と言えるかもしれません。

例えば、
血圧を調整する薬について考察しましょう。
「高血圧を下げる」薬では、
正常時に服用すると、血圧を下げてしまう事でしょう。
また、
糖尿病の治療薬ならば、、血糖値を下げる薬は、
正常な人には血圧を下げすぎて危険かもしれません。
(もっとも、過剰に取らない限り
 大丈夫なのですけどね。)

だから、
「薬」とは、必要ないなら取らない方が良いものだ
と考えて良いと思います。
「体にとって異物である」なのですから、
それは当然な事なのです。


###
そして、
「薬」には、もう1つ重要な側面があります。
それは
「薬には副作用がある」という事です。

薬は異物であり、
異常な部分のバランスを「正常に戻す」ように働きますが
それ以外の部分にも、働きかけてしまう事も
あるんです。
「病気になっていない部分」は正常ですから、
そこに働くと、体にとっては良くない効果が
出てきてしまう事になってしまうんです。
これを「副作用」と言います。

つまり
「副作用」とは、元々の狙った所以外の部分に
薬が作用してしまう事を言います。
だから、
「副作用」とは悪いものばかりとは限らないのです。
例えば、
バイアグラやリアップは、元は別の薬の副作用から
開発されたものだったんですね。
また、
アスピリン(鎮痛剤、バファリン大人用の主成分)は血栓
(血液を凝固させたもので、血を止める際に出来る。
 それ以外で出来ると、血管を詰まらせる事もある。)
が出来るのを妨げるので、
脳梗塞患者の再発予防に用いられています。
このように
「役に立つ」副作用も、あるんです。
しかし、
悪い影響を与える副作用が多いのも、確かです。

薬にはどうして「副作用」というものが
起こってしまうのでしょう?
それは、大雑把に言うと、こういう事だと考えられます。

人間の体では、
「同じ仕組み」が様々な所で用いられているんですね。
いくつかの「良く使われる仕組み」を組み合わせて
それぞれの場所での「調節」を行っている、
その「組み合わせの仕方」によって、
様々な調節を行っている、というメカニズムになりますね。
人間に限らず、生き物の体って、
そんなふうに出来ています。
だから、
その「仕組み」をいじろうとすると、
他の関係のない所にも影響する事があるんです。

「薬の副作用」は、そういう事情で起こると言えます。
つまり、
薬には、「副作用」というのが
どうしてもつきまとってしまうのです。
それは、薬というモノが原理的に抱える闇だと
言えるかもしれません。


だから
薬は、狙っている効果と副作用がある中で、
バランスを取って上手に使わないとイケナイものなんです。
つまり
薬は、使い方が非常に難しいものだ、と言えます。
効き過ぎてもイケナイし、でも効かないと困る。
副作用が影響しない範囲に抑えないとイケナイ・・・
だから、
「薬」は、プロにしか使わせない事になっているんですよ。
つまり、多くの薬は、医者の処方箋がないと
買うことが出来ないルールになっていますね。
薬局で買える薬は、
効き目が低く(つまり副作用も小さい)
歴史の古い薬
(なので、どういう副作用があるかが充分に分かっている)
に限られているんです。
しかも、それも、特別に許可を受けた薬局でしか
販売ができないのです。
(コンビニやドンキホーテなどでの販売許可について、
 最近、話題になったのを
 覚えている方もおられるでしょう。
 それは「薬は使用の難しい危険な物」だから、
 販売にもルール・規制が必要という事情なのです。)



###
薬を飲むのが好きな人って、居ますよね。
別に医者にかかっている訳でもないのに、
食事時にいくつも、薬やらサプリメントやらを
飲んでいる人を見かける事があります。
やたらとドラックストアに行く人とか、ね。

そういう人って、
クスリの裏側の「リスク」について、
ちゃんと分かっているのかなぁって思うんです。
クスリとは異物であり副作用のある物なんだ、
だから、飲み過ぎるのはリスクのある事なんだ
そう分かっていて
それでも薬を飲んでいるのかなって。

でも、
そういう事を強調しすぎると、
薬を飲むのが怖くなってしまうかもしれません。
今後、薬は飲まない方が良いかなって
受け取ってしまった方も居るかもしれないですね。
でも、
必要な薬は、ちゃんと飲んだ方が良いと思います。
「飲まない」のではなく、
リスクのある事をちゃんと知って、
必要なだけ、飲む、というのが
正しい態度なんだと思うんです。



追記部分は参考文献の紹介です>
posted by めたか at 23:21| Comment(6) | TrackBack(1) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月20日

しあわせは自分で決める(生命倫理特集「治験について」)

今回のテーマは
「インフォームド・コンセント」です。
とても大事な考え方なので、
少し丁寧に説明したいと思います。


私はこの考え方を理解したのは
病院で死ぬということ』を読んで、です。
この本は、ガンの終末医療について問題提起した本で、
私はこの本からたくさんのことを学びました。
そこで、まず
この本の概略について説明してみたいと思います。

前半部では、治す手だてのなくなったガン患者に対する
病院での治療の、その当時の現状について
語られます。
その当時、ガンの告知は殆ど行われていなくて
自分の病名を知らない患者は、偽りの説明を受けながら
弱っていく自分の体とのギャップに苦しみ、
疑心暗鬼になり、絶望しながら死んでいく様子が
ある種の怒りを持って語られます。

そして、後半部分では、
この現状を変えていくための
提案と筆者の行っている試みが語られます。
その要点は
・現在行っている、
 患者に苦痛を強いるだけの無駄な延命治療は行わない
・患者の痛みや苦痛を極力、取り除くようにする
・患者の希望があればなんとか叶う手だてをする
ことで、患者さんが最期の時まで
人間らしく生きることを応援する治療を行う
という事です。

そして、
その理想を実現するためのシステムとして、
「ホスピス」について説明しています。
良く誤解されているのですが、
「ホスピス」は、安らかに死ぬための所ではなく、
最期まで人間らしく生きるための場所なのだ、という事が
強調されています。

ただし、
このような治療を行うためには一つ重要な前提があります。
それは、いわゆる「告知」
つまり、患者自身に正確な病名や病状を知らせることです。

患者の本当の望みやニーズは
患者自身でないとわからないものでしょう。
しかし、自分が本当はどうしたいのか、を考えるためには
患者が本当の事を知っている必要があります。
偽りの説明しか受けていなければ、
自分の希望なんて考える事はないでしょう。
その結果、医療側や看護する側の都合によって、
全てが決められていくことになってしまいかねません。
そうではなく「患者側の都合」で治療が行われる事が
大事なのです。

だから、
通常の「治すための治療」や「延命治療」を
否定しているのではありません。
たとえわずかな可能性でも最期まで闘い続けたい、
そう患者が望むならば、そのための治療も行われます。
実際、この本でも「最期まで闘い続けた患者」が
描かれています。
しかしそれは、患者自身の意志によるものでないといけない、
と、この本は主張しています。

まとめると、
患者側の立場に立ち患者の希望を最優先にした治療が
行われるべきだ、という事です。
そのためには患者は全てを知らされていないといけないし、
決定権は患者にある必要があります。

このことを
インフォームド・コンセント」と言います。
「インフォームド・コンセント」という言葉自体は
『病院で死ぬということ』には出てきませんが
必要なポイントは全て語られています。
いや逆にこの本に書かれている事こそ、
本当の意味での「インフォームド・コンセント」
と言うべきでしょう。

「インフォームド・コンセント」という言葉自体が
単に「治療方針について患者の同意を取ること」と
誤解されがちだと思います。
そのように書いている書物は、まだまだ多いようです。
しかしそれだと、主導権が医者の側にあることになります。
それは本当の「インフォームド・コンセント」とは
言えないのではないでしょうか。
あくまで主導権が患者にあってこそ、なのです。

そしてこれは、ガンの終末医療に限らず、
全ての医療で求められてきていると思います。
病気の治療はこれまでは全て医者が決めていましたよね。
私たちは「お医者さんに全てお任せ」だった訳です。
だけど、これからはお医者さんと患者が話し合って
治療方針を決めていくことになるでしょう。

そして、
この考え方は、医療に限らず様々な面で重要になってくる、
と思います。
大げさじゃなく、これからの日本に必要な考え方じゃないか、
とも私は考えているんですよ。


###
ここまでの文章では、
「インフォームド・コンセント」というのは、
非常に良いことだらけのように思われるでしょう。
しかし、実はそうとばかりは言えないんですよ。

もちろん、
私は「インフォームド・コンセント」はとても大切な事だと
思っていますし、
たくさんの人にこの考え方が受け入れられればいいな、
と希望しています。
だけどそのためには、
インフォームド・コンセントの大変な面も
知ってもらう必要があると思うんですね。
だから、今からそのことを書きます。

そう、ちょっと想像してもらうと分かると思うんですが、
インフォームド・コンセントって、
とてもしんどいことなんですね。
自分自身で判断し決断する、というのは、
大変なことですし、
そのためには色々なことを勉強する必要があります。
そして、何かあっても「自己責任」になってしまう訳で、
だから、そうしないで全てを「人任せ」にしてしまえば、
それはとても楽なことなんですね。

また、
インフォームド・コンセントは、
医者にとっても大変なことだったりします。
ちょっと想像してみましょう。

最近の中学校では
色々と変わった試みをしているらしくって、
「総合学習」と言って
社会について知るための授業がされているそうです。
その一環として、あなたに依頼が来ました。
色々な職業を知るために
あなたの仕事の内容を具体的に説明して欲しい、と。

相手は中学生です。
当然、あなたの仕事について、どころか、
その為に必要な予備知識すら身につけていない事でしょう。
どうですか?
そんな子たちに、あなたの専門を説明するって
難しい事だと思いませんか?

専門外の人に専門的な内容を説明するって、
とても難しい事なんですね。
だから、
素人に説明するくらいだったら全て自分で責任を被る、
そう考える人はたくさんいることでしょう。
現に、これまでの医療はそうやってなされてきた訳ですし。

しかし、
いくら大変だからと言っても、説明がおざなりなら
患者が困ることになります。
何度でも言いますが、インフォームド・コンセントは
患者主導で患者の希望に添った治療が行われる事です。
それがなされるためには、2つの条件があります。

・決定権は患者にあること
・患者が判断するための情報は十二分に提供されること

特に重要なのは2つ目です。
1つ目だけなら、医者からすれば簡単な事です。
単に患者に言われた通りに治療すれば良いだけ
ってなりますから。
だけど、専門家でない患者が、そう簡単に治療方針なんて
決めることができる訳ないじゃないですか。

だから、
専門家でない患者にも、病気のこと、治療法のことが
分からないといけないし、
その上でちゃんと判断できるようになってもらう、
それだけの情報を提供しないといけないわけです。
つまり「説明責任」
流行りの言葉で言えば「アカウンタビリティー」
という事ですね。
しかし語感の新しさに反し、持つ意味は非常に重いんです。


これで「インフォームド・コンセント」が
患者にとっても医者にとっても大変な道である事が
お分かり頂けたでしょうか。
逆に、びびらせてしまったかもしれませんね、
「そんなに大変な事ならやらなくても良い」って。

そういう訳で
「インフォームド・コンセント」は日本では受け入れられない
と言う人も多くいます。
でも、そう悲観することでもないかもしれません。

これは、昔、MRをやっていた人から聞いた話なんですが、
ガン患者は自分の病気について
非常に良く勉強するそうなんです。
全ての人がそういう訳ではないと思うんですが、
そういう人がとても多いって。
それは、
患者にとっては自分の命がかかった重大事な訳ですから、
それだけ必死なんですね。
だから、下手な専門家以上に色々なことを知っている患者は
沢山いるそうなんです。

こういう話を聞くと勇気が出ます。
つまり、自分にとって大事な事だと本気で思えれば
知識の壁って乗り越えられるものだ、という話だから。
だから、医療側も本気で伝えようとすれば
きっと乗り越えられると思うんです。
それに今は、「セカンド・オピニオン」のような
インフォームド・コンセントを助ける方法もあります。
治療してくれる医者以外に、
他の関係ない医者にも意見を聞いて
治療方針を自己決定する参考にしよう、という事です。
こういう動きも広まれば、
インフォームド・コンセントが患者の当然の権利として
受け入れられるようになるのではないか、と思うんです。


そしてこれは、
医療だけの事ではなくなると、私は思っています。
例えば、
政治の話をすれば、
今までは政治家や官僚が日本の行く末を決めていました、
だけど、
これからは、政治家・官僚の役割は
「選択肢を呈示すること」になるのではないでしょうか。
選択権はあくまで国民、住民にあり、
政治家や官僚は、国民がちゃんとした選択ができるように、
政策を分かりやすく説明する責任が出てきている、
と思うんです。
例えば、
ダムを造るべきかどうか、は、
洪水の危険性を元に専門家である官僚や政治家が
判断するのではなく、
どういう選択をすればどういうリスクがあり、
そしてどれくらいお金がかかるのか、を
ちゃんと説明して、
その上で住民が判断する事だ、というのが
今後、当たり前の事になってくるでしょう。

政治だけの話ではありません。
他にも、色々な場面で「インフォームド・コンセント」が
求められる時代が、きっとやってくる。
そう、私は希望しています。



追記部分はタイトルの種明かしです・・・
posted by めたか at 22:23| Comment(14) | TrackBack(5) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月19日

生命倫理特集「治験について」始めます

さて、
何度も何度も予告していた
「生命倫理について何かやります」って事を
始めようと思います。
取り上げるのは、治験。医薬品の臨床試験の事です。
(って、何の事だかさっぱり分からない方は
 たくさんおられるでしょう。
 実際のエントリを楽しみにお待ち下さい^^)
これを取り上げようと思ったのは、
2年前のほぼ日でさせて頂いた「生命倫理の話」で
最後に、問いかけって意味で、質問事項を並べたんですね。
ちょっとしたアンケートって感じだったんですが、
例え答えて頂かなくても、考えて頂くだけでも意味がある
そういうつもりで出した「問いかけ」だったんです。
で、
これに沢山の方々が答えて下さったんですが、
その答えを読んでいて、1つ気になった事が
「治験って事が、ちゃんと理解されていないなぁ」
って事なんです。
これは、こういう質問をした手前
ちゃんと説明する責任があるなぁって思って、
「治験」を説明するなら、
どうやってしようかって考えてみると、
これを説明する事で、生命倫理の基本的な部分が
ある程度、説明できる事になるって気がついたんです。

と言う事で、
話としては「治験」について、になりますが、
他の生命倫理についても応用できるような「基本的な考え方」
を説明したいと思っていますので、
どうか皆様、付き合って下さい。

とりあえず、予定としては全6回で、各回は
1.インフォームドコンセントについて
2.薬というもの
3.治験のシステムについて
4.ブラシーボ効果と二重盲験試験
5.治験の倫理問題
6.治験の空洞化について

本当なら、ここに「情報について」
(情報公開と個人情報保護)も取り上げるべきなんですが、
私自身がその辺に付いて不勉強で、良く分かっていませんので
ここでは取り上げません。
ただ、そういう問題もあるって事のみ
ここに挙げておこうと思います。
(そうすれば、誰か詳しい人が
 解説して下さるかもしれませんから・・・)

それで、
結構、重たい文章が続くので、
矢継ぎ早にどんどん出すのではなく、
「小出し」にしていこうと思います。
・・・頂いた反応から、
また別の事が生まれるかもしれませんし、
とにかく、読んで頂く方々に、色々と考えて欲しいな
というのが一番の目的ですので・・・続きを読む
posted by めたか at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月14日

着床前診断・承認

<着床前診断>日産婦倫理委も全会一致で承認

慶応大の受精卵診断承認 学会倫理委が初

着床前診断 男女の産み分けで議論


また解説は書きます。
(本当は、こういう話題こそ
 「メインテーマ」なんですけど・・・)
posted by めたか at 17:05| Comment(4) | TrackBack(1) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月27日

再び、生命倫理について

前に書いたクローンの話について、
netwindさんのコメントが、
非常に参考になるので、
これをネタに、生命倫理の問題について
再び取り上げてみます。

技術的な事については、
コメント欄に書いたのでそちらを見て頂くとして、
この「腎臓に先天的な病気を持っている女性」
に対しどう思うか、
それに絞って考えましょう。


###
森鴎外の高瀬舟って小説をご存知でしょうか?
江戸時代の、罪人の話なんですが、
その「罪状」が、安楽死幇助、なんですね。
病気の兄(だったかな?)が悲観して自殺しようとして、
死にきれずに苦しんでいた所を、
頼まれてとどめを刺した
そんな話だった、と思います。
これって、本当に罪なのだろうか?
話を聞いた主人公が悩むって話なんですが・・・

で、
罪かどうか、はともかく、
悪い事がどうか、もともかく、
安楽死について、どう思われますか?

自分が病気(など)で苦しんでいる場合、
その病気が治る見込みがない場合、
安楽死したいって思うのか?

愛する人が、治る見込みのない病気で苦しんでいて、
安楽死を希望したとき、
安楽死させてあげたいと思うのか?
それでも生きていてほしいと願うのか?

これって、
そもそも答えの出ない問題だと思いませんか?

ほぼ日での生命倫理の話は、
「敢えて、生命倫理について」って
タイトルがついているんですが、
そもそものタイトルは
「1年の始めに、答えのない問題を考えてみませんか?」
だったんです。

生命倫理には、
こういった「答えのない問題」が、
数多くあると思っています。

いや
「答え」はあるにしても、
それは誰にとっても正しい答えなんかじゃない、
人によって異なっているし、
それが当然の事であるって、思うんです。
(だから「正解」ではなく「回答」なんでしょうね、
 「答え」の意味は・・・)

netwindさんの書かれた話も、
「答えのない問題」だと思います。
だって、コレ、答え出ると思います?
しかも、その答えが
みんなに納得してもらえると、思います?

でも、
思うんです、コレ、
その人がどういう「答え」を出すか、には、
その人の価値観がもの凄く現れるって。
「腎臓に先天的な病気を持っている女性」に
共感するか、反感を抱くか、
そうやって生まれてくるクローンに
同情するか、羨ましく思うか、
本当にその人が現れるなぁって。

だから
「生命倫理問題は、
 「それぞれの人の価値観」
 を見つめなおすすごいいい機会になる」
って言ったんです。


###
しかし、面白いなーって思ったのは・・・
前に
(essaさんと)ほぼパラレルな葛藤を、私も切実に持っている」
って書いていたんですけど、
それを裏付ける事がありまして。
essaさん、今度はこういう事を書いておられるんですが、
ホント、まんま、パラレルなんですね、
クローンについて私の書いてる事と。
ちょっと引用すると、

>「パブリック・フィロソフィ(のようなもの)が
> もうすぐ実体化しますけどどうしますか?」
>と言いたいわけです。
(essaさん)

>だけど、
>「そうやって、どんどん決まっていきますけど、
> 良いんですか?」
>って言いたいんです。
(私、めたか)

でしょ?
posted by めたか at 03:13| Comment(2) | TrackBack(2) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月24日

ヒトクローン胚研究、容認へ

え、まず、「業務連絡」
離婚弁護士の感想は、この後に書きます。
(先ほどまで見ながらメモしていました。)
先にこちらを仕上げます。
ま、12時までには、離弁の方も仕上げられれば・・・
(早く寝たいし)


実は、昨日の晩にこのニュースを知って、
記事にしないとって思ったんですが、
眠気に負けて寝てしまいました。
今日、新聞各紙一面で、他にもニュースで
大きくとりあげられていると思いますけど・・・

ヒトクローン胚:難病研究などに限り容認

今、essaさんとかとやっている論争の動機として、
ほぼパラレルな葛藤を、私も切実に持っていて
と書いているんですが、
この問題なんて、まさしくそう。

本音を言うと、
こうやって少しずつでも研究が認められていくのは、
研究者としては歓迎なんです。
だけど、
「そうやって、どんどん決まっていきますけど、
 良いんですか?」
って言いたいんです。

いやでも、
「現状の意思決定システムの上」においては、
この問題は、慎重の上にも慎重にって感じで、
議論が積み重ねられてきているんですよ。
(この問題って、
 かなり長い時間かけて議論してきていると思う。)
それについては、文科省のホームページで公開されています。

といっても、
議事録などを読んでも、どんな話し合いがされていたか、
ちょっとわかんない、ですよね?

それで、
著書『絶対音感』で有名な最相葉月さんが、
生命倫理のホームページをされているんです。
そこで、この問題についても取り上げておられます。
最相葉月のなんでやねん日記
(リンクは最新のものです。6月24日更新分)
最相さんはこの専門調査会を最初からずっと傍聴されているそうで、
その方が、問題を分かりやすく解説してくれています。
(私も、さすがに文科省の議事録なんて読んでないですし。
 昔、読んでた事はあったけど・・・
 なんで、この最相さんの記事は参考にしています。)
これによれば、
決定のプロセスに、かなり問題あったと言えるでしょう。
決定が多数決、
ま、それはしょうがないかもしれない、
どこまで言っても結論が出ないことかもしれないから。
だけど、
問題はその内容、みたいですね。
過去ログとかも見てみると、
まず、「ちゃんと出席していない人」が多くて、
たまに出てくる人が、「進んだハズの議論」を
引き戻したり引っ掻き回したり、していたそうです。
それで結局、「数の論理」
(しかし数と言っても、どういう委員を選ぶかってのは、
 文部科学省が恣意的に選んでいる訳で。)
で押し切ったけど、
細かな手続きなどは全然決まっていない
(そんな状態で「容認」と言っても、
 条件次第って人もいるだろうにね。)

って感じで、
そのプロセスには「推進派」の私からしても、
問題あるなぁってものですね。
(まぁ、これはあくまで最相さんの目から見て、
 ですけど。)

しかも、
研究者にとっても制限の多いものと言えるようですね。
実際に認められたと言っても、
様々な制限が付いたものになっています。
だから、
「人クローン胚容認といいながら、
 この要件ではなかなかそこまではいけない」
なんでしょう。
(だから、業界向けのニュースでは
 こういう記事になっている。)

私が少し、背景知識を足すと、
最近、他の国々でもクローン研究が認められてきているので、
急がないと日本も取り残される、
という焦りがあったように思います。
(なんで、日経バイオのメルマガなんかは
 「このままでは日本は取り残される」といった
 「アジ文」を載っけまくってたっけ。)

ま、きっと、
研究者の側から「これでは研究はできない」
という意見が出て、
なし崩し的に条件が緩和されていくんだろうなぁ
って思いますけど。
(で、それに向けて日経バイオがアジる)
そして、
上に書いた「背景」があるので、
認められて行く流れになるでしょうね。
でも、
この最相さんの文章を読んでいると、
そのプロセスも無茶苦茶なものになっちゃいそうだなぁ
って思いました。

もう一度繰り返しますけど・・・

「そうやって、どんどん決まっていきますけど、
 良いんですか?」


こういった問題については、
また取り上げます。
もし良ければ、読んだ方々、
気軽にご意見を残して頂けませんか?
posted by めたか at 12:39| Comment(2) | TrackBack(1) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年05月20日

罪を憎んで人を憎まず

もげきゃっちさんの
「動物愛護法」…このままでイイの? を読んで、
丸一日くらい、考え込んでしまいました。
(ちょっと大げさ。他にもくだらない事いっぱい考えてるし。)

それで、
こういう内容なので、コメント欄には書かずにトラックバックにしました。
不快なら無視してください。


処刑されたネコが可哀想だ、というのも、
危害を加えた犯人が許せない、というのも、
理解できるし共感もできるんです。
だけど、
「刑罰を重くするべきだ」という話には、
首肯できない自分がいます。

私が疑問に思うことを列挙してみます。
感情に流される前に、
ちょっと立ち止まって考え直してみませんか?


刑罰の軽い・重いというのは、
どこで判断すれば良いのでしょう?

どれくらいの刑罰なら人は納得するのでしょうか?

刑罰の重さが、
犯罪の抑止に役立つというのは本当なのでしょうか?

犯罪を防ぐには、どうすることが一番有効なのかな?

そもそも人が人を裁くって、どういう事なんだろう?

命を大切にするって、どうする事なんですか?

動物を愛するって、どういう事なんでしょう?

ペットを飼う、ということは、
動物にとって、そして人にとって、どういう意味があるのだろう?

生命って、そもそも何?

人は、動物は、なぜ、死んでしまうのでしょう?

悲しみとか怒りとかの感情は、
どこから来て、どこに向かうのでしょう?


酷い犯罪のニュースなどを見て心が乱れた時に見るサイトです。
こころの散歩道
(最近あまり更新されていないみたいですが・・・)
posted by めたか at 15:35| Comment(4) | TrackBack(0) | 生命倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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