今回のテーマは
「インフォームド・コンセント」です。
とても大事な考え方なので、
少し丁寧に説明したいと思います。
私はこの考え方を理解したのは
『
病院で死ぬということ』を読んで、です。
この本は、ガンの終末医療について問題提起した本で、
私はこの本からたくさんのことを学びました。
そこで、まず
この本の概略について説明してみたいと思います。
前半部では、治す手だてのなくなったガン患者に対する
病院での治療の、その当時の現状について
語られます。
その当時、ガンの告知は殆ど行われていなくて
自分の病名を知らない患者は、偽りの説明を受けながら
弱っていく自分の体とのギャップに苦しみ、
疑心暗鬼になり、絶望しながら死んでいく様子が
ある種の怒りを持って語られます。
そして、後半部分では、
この現状を変えていくための
提案と筆者の行っている試みが語られます。
その要点は
・現在行っている、
患者に苦痛を強いるだけの無駄な延命治療は行わない
・患者の痛みや苦痛を極力、取り除くようにする
・患者の希望があればなんとか叶う手だてをする
ことで、患者さんが最期の時まで
人間らしく生きることを応援する治療を行う
という事です。
そして、
その理想を実現するためのシステムとして、
「ホスピス」について説明しています。
良く誤解されているのですが、
「ホスピス」は、安らかに死ぬための所ではなく、
最期まで人間らしく生きるための場所なのだ、という事が
強調されています。
ただし、
このような治療を行うためには一つ重要な前提があります。
それは、いわゆる「告知」
つまり、患者自身に正確な病名や病状を知らせることです。
患者の本当の望みやニーズは
患者自身でないとわからないものでしょう。
しかし、自分が本当はどうしたいのか、を考えるためには
患者が本当の事を知っている必要があります。
偽りの説明しか受けていなければ、
自分の希望なんて考える事はないでしょう。
その結果、医療側や看護する側の都合によって、
全てが決められていくことになってしまいかねません。
そうではなく「患者側の都合」で治療が行われる事が
大事なのです。
だから、
通常の「治すための治療」や「延命治療」を
否定しているのではありません。
たとえわずかな可能性でも最期まで闘い続けたい、
そう患者が望むならば、そのための治療も行われます。
実際、この本でも「最期まで闘い続けた患者」が
描かれています。
しかしそれは、患者自身の意志によるものでないといけない、
と、この本は主張しています。
まとめると、
患者側の立場に立ち患者の希望を最優先にした治療が
行われるべきだ、という事です。
そのためには患者は全てを知らされていないといけないし、
決定権は患者にある必要があります。
このことを
「
インフォームド・コンセント」と言います。
「インフォームド・コンセント」という言葉自体は
『病院で死ぬということ』には出てきませんが
必要なポイントは全て語られています。
いや逆にこの本に書かれている事こそ、
本当の意味での「インフォームド・コンセント」
と言うべきでしょう。
「インフォームド・コンセント」という言葉自体が
単に「治療方針について患者の同意を取ること」と
誤解されがちだと思います。
そのように書いている書物は、まだまだ多いようです。
しかしそれだと、主導権が医者の側にあることになります。
それは本当の「インフォームド・コンセント」とは
言えないのではないでしょうか。
あくまで主導権が患者にあってこそ、なのです。
そしてこれは、ガンの終末医療に限らず、
全ての医療で求められてきていると思います。
病気の治療はこれまでは全て医者が決めていましたよね。
私たちは「お医者さんに全てお任せ」だった訳です。
だけど、これからはお医者さんと患者が話し合って
治療方針を決めていくことになるでしょう。
そして、
この考え方は、医療に限らず様々な面で重要になってくる、
と思います。
大げさじゃなく、これからの日本に必要な考え方じゃないか、
とも私は考えているんですよ。
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ここまでの文章では、
「インフォームド・コンセント」というのは、
非常に良いことだらけのように思われるでしょう。
しかし、実はそうとばかりは言えないんですよ。
もちろん、
私は「インフォームド・コンセント」はとても大切な事だと
思っていますし、
たくさんの人にこの考え方が受け入れられればいいな、
と希望しています。
だけどそのためには、
インフォームド・コンセントの大変な面も
知ってもらう必要があると思うんですね。
だから、今からそのことを書きます。
そう、ちょっと想像してもらうと分かると思うんですが、
インフォームド・コンセントって、
とてもしんどいことなんですね。
自分自身で判断し決断する、というのは、
大変なことですし、
そのためには色々なことを勉強する必要があります。
そして、何かあっても「自己責任」になってしまう訳で、
だから、そうしないで全てを「人任せ」にしてしまえば、
それはとても楽なことなんですね。
また、
インフォームド・コンセントは、
医者にとっても大変なことだったりします。
ちょっと想像してみましょう。
最近の中学校では
色々と変わった試みをしているらしくって、
「総合学習」と言って
社会について知るための授業がされているそうです。
その一環として、あなたに依頼が来ました。
色々な職業を知るために
あなたの仕事の内容を具体的に説明して欲しい、と。
相手は中学生です。
当然、あなたの仕事について、どころか、
その為に必要な予備知識すら身につけていない事でしょう。
どうですか?
そんな子たちに、あなたの専門を説明するって
難しい事だと思いませんか?
専門外の人に専門的な内容を説明するって、
とても難しい事なんですね。
だから、
素人に説明するくらいだったら全て自分で責任を被る、
そう考える人はたくさんいることでしょう。
現に、これまでの医療はそうやってなされてきた訳ですし。
しかし、
いくら大変だからと言っても、説明がおざなりなら
患者が困ることになります。
何度でも言いますが、インフォームド・コンセントは
患者主導で患者の希望に添った治療が行われる事です。
それがなされるためには、2つの条件があります。
・決定権は患者にあること
・患者が判断するための情報は十二分に提供されること
特に重要なのは2つ目です。
1つ目だけなら、医者からすれば簡単な事です。
単に患者に言われた通りに治療すれば良いだけ
ってなりますから。
だけど、専門家でない患者が、そう簡単に治療方針なんて
決めることができる訳ないじゃないですか。
だから、
専門家でない患者にも、病気のこと、治療法のことが
分からないといけないし、
その上でちゃんと判断できるようになってもらう、
それだけの情報を提供しないといけないわけです。
つまり「説明責任」
流行りの言葉で言えば「アカウンタビリティー」
という事ですね。
しかし語感の新しさに反し、持つ意味は非常に重いんです。
これで「インフォームド・コンセント」が
患者にとっても医者にとっても大変な道である事が
お分かり頂けたでしょうか。
逆に、びびらせてしまったかもしれませんね、
「そんなに大変な事ならやらなくても良い」って。
そういう訳で
「インフォームド・コンセント」は日本では受け入れられない
と言う人も多くいます。
でも、そう悲観することでもないかもしれません。
これは、昔、MRをやっていた人から聞いた話なんですが、
ガン患者は自分の病気について
非常に良く勉強するそうなんです。
全ての人がそういう訳ではないと思うんですが、
そういう人がとても多いって。
それは、
患者にとっては自分の命がかかった重大事な訳ですから、
それだけ必死なんですね。
だから、下手な専門家以上に色々なことを知っている患者は
沢山いるそうなんです。
こういう話を聞くと勇気が出ます。
つまり、自分にとって大事な事だと本気で思えれば
知識の壁って乗り越えられるものだ、という話だから。
だから、医療側も本気で伝えようとすれば
きっと乗り越えられると思うんです。
それに今は、「セカンド・オピニオン」のような
インフォームド・コンセントを助ける方法もあります。
治療してくれる医者以外に、
他の関係ない医者にも意見を聞いて
治療方針を自己決定する参考にしよう、という事です。
こういう動きも広まれば、
インフォームド・コンセントが患者の当然の権利として
受け入れられるようになるのではないか、と思うんです。
そしてこれは、
医療だけの事ではなくなると、私は思っています。
例えば、
政治の話をすれば、
今までは政治家や官僚が日本の行く末を決めていました、
だけど、
これからは、政治家・官僚の役割は
「選択肢を呈示すること」になるのではないでしょうか。
選択権はあくまで国民、住民にあり、
政治家や官僚は、国民がちゃんとした選択ができるように、
政策を分かりやすく説明する責任が出てきている、
と思うんです。
例えば、
ダムを造るべきかどうか、は、
洪水の危険性を元に専門家である官僚や政治家が
判断するのではなく、
どういう選択をすればどういうリスクがあり、
そしてどれくらいお金がかかるのか、を
ちゃんと説明して、
その上で住民が判断する事だ、というのが
今後、当たり前の事になってくるでしょう。
政治だけの話ではありません。
他にも、色々な場面で「インフォームド・コンセント」が
求められる時代が、きっとやってくる。
そう、私は希望しています。
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追記部分はタイトルの種明かしです・・・