2004年08月04日

スポーツ新聞に告ぐ!

ちょっと疲れが溜まってきている
(肉体的にも精神的にも)ので、
今日はシンプルに行きます。

スポーツ新聞って、
今回の問題に対して、なんか野次馬的なスタンスで、
何でも良いからネタになれば良いって煽り方をしてるなって
思うんです。だけど、
プロ野球が衰退してしまうと、
スポーツ新聞って非常に困るって思うんです。

野球があるからこそ、スポーツ新聞って
売れてるんじゃないですか?
野球がなくなっても、
他のスポーツとかネタはあるかもしれません、
オリンピックとかがあれば売り上げは伸ばせるでしょう、
だけど、
野球のように、日常的に盛り上がってくれるネタは、
他にはないと思うんです。
サッカー? 毎日はありませんよ。
スポーツ新聞にとって、今の野球の位置を埋めてくれるものって、
ちょっと考えられないって思うんです。

そう、
今回の野球界の問題って、スポーツ新聞にとっても
決して「他人事」ではありえない!
と思うんです。
ですから、
スポーツ新聞が、この問題に他人事な野次馬根性で報道できるのが、
本当に理解できません。

これ、プロ野球のOBにも当てはまりますね。
ホント、理解できないんですよ。

もちろん、
人それぞれ、立場ってのがありますから、
できること、できないことは、あると思う。
でも、
せめて、この問題を自分の事として引き受ける事くらいは、
してほしいって思うんですが。
そうすれば、
もう少しマシな、真摯な記事が書けるって思うんですが、
贅沢な願いでしょうか?
(はっきり言って、
 ネットで素人が書いてる事の方が、
 良質なものがいっぱいあるんですが。
 選手会の必死の抵抗すらまともに報道しないって、
 どーなの?)
posted by めたか at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月18日

「改革」に「痛み」は必要か?

最近、紳助さんの昔話がとても面白いんですけど、
それでも昔の「東大受験騒動」は
まだ触れてはいけない事なのでしょうか?
どうも、めたかです。


前に「少し風向きが変わって来た?
って記事を書いたんですが、
その後の阪神、セ球団の動きって、
ちょっと違うなって思っています。
それについては、また書きますけど、
その中でも、一番危惧されるのは
「結局、それぞれの経営陣が自分の利益だけ考えていて、
 その押し合いってだけに問題が矮小化されてしまう」
って事ですよね。
そもそも問題は
「近鉄・オリックス両球団の合併の是非」
だったハズです。
(1リーグ化を批判してるのは、
 今回の合併劇が「無理矢理1リーグ化に持っていく手段」
 に、されてしまってるから、ですよね。
 それは筋違いでしょって事で。)
なので、
このサイトではあくまで
「バファローズとブルーウェイブの合併反対」
を主軸に、その延長上に
「プロ野球の改革はどうあるべきか」
を考えて行きたいって思います。


###
最近の医療では
患者に過剰な負担をかけない、と言う事が
重視されてきています。
QOLの向上って言うんですか、
("Quality Of Life" つまり「生活の質」)
ただ病気を治せば良いって事じゃなく、
大事なのは「患者の幸せ」なのだから、
患者にとって良い闘病生活を送ってもらう
ために医療側が手を尽くす。
これが現在の医療の流れになってきています。

もちろん、
治療の必要のためには
患者さんに負担をかける場合もあるでしょう。
しかし、その場合も、
患者さんに充分な説明をし、患者さんの同意を得て、
その上で慎重に進められるんですよ。
(しかも、なるべく負担を軽減するように
 工夫が凝らされます。)

これを「インフォームド・コンセント」と言います。
(実は少し違うんですが・・・
 インフォームド・コンセントについては
 また機会を改めてちゃんと書きます。)
これは、これからの医療の主流となる流れだと
私は思っています。


これは、
医療だけの流れではないと、私、思うんです。
例えば、
何かを改革するため、と言って、
そこで生じるという「痛み」は本当に必要なものか、
ちゃんと検討されないといけないし、
なるべく痛みの無い、もしくは痛みの少ない方法を
考えた方が良いと思うんですね。
また、
仮に「痛み」を伴う改革をする場合も、
その「痛み」の対象に対し、充分に説明がされて、
ちゃんとある程度の同意を得た上で
進められないといけないって思う。

前に
「改革には、痛みを伴う必要がある」みたいな、小泉首相的論理には、私は与しない!
って書いたのは、
こういう意味なんですね。
私は「改革のためには痛みを伴う」っていう
小泉改革なるものを、始めから信用していません。
それは、こういう訳なんですね。
(もちろん、
 「既得権益を持ってる人たちは、何を言っても抵抗する」
 ってのはその通りでしょうし、
 だから既得権益はなんでも認めるべきって訳ではありません。
 でも、
 既得権益側を全て悪者にして問答無用に切り捨てるってのは
 違うんじゃないかって事です。
 一応、念のため。)


今回の両球団合併の件についても、
本当に合併は不可避だったのか、などについて、
ファンや選手たちに納得出来る説明が
充分された上で進められているとは思えないですね。
それどころか、
ライブドア門前払いから分かるように
他の方法を充分に検討したとも思えない。
彼らの「改革」なんて、しょせんそんなもの、なんです。


私が今回の「合併、1リーグ化への動き」に
全く賛同出来ないのは、
こういう理屈からです。
posted by めたか at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月11日

もしストをするのなら

さて、
選手会のストってのが、
現実的な課題として出てきましたね。
オーナー連中が話し合いを全く見せない状態としては
やむを得ないって事は、思うんです。
とりあえず、
今の状態で「手段として」持っておく、
選手会に持たせておかないと、
交渉のカードが少なすぎますもんねー。

でも、
単にストって寂しいし、
「野球を見たい!」って気持ちも、あるでしょう?

なんで、
これは選手会への提言です。
もし、ストをやるのなら、
単にストだけじゃなく、
ストをした選手達が集まって、
「野球」をしませんか?
選手会主導で・・・

そう、
今のリーグ機構とは別で、
球場を借りて、野球をする、っていう。

今、募金をって声もチラホラ出て来てるんですが、
単に募集じゃ、面白くない。
どうせなら、
「スト時に選手会主導で野球興行をするため」
そのための募金をしましょうよ!

中継するメディアも、探しましょう。
きっと、話題になるから、
視聴率、取れますよ!
スポンサーも募りましょう。
(ライブドアでもかまわないですよ(笑))
もちろん、チケットもちゃんと売る。
そうやって得た収入を、選手会の活動資金にしても良いと思うし。

こんなん、どうでしょう?
何か問題あるのかなー。
でも、どうせストするなら、
何か夢のある事を仕掛けた方が良いでしょう?


うーん、ちょっと無理があるかなぁ。
選手会に変な負担をかけてしまう可能性もあるし。
だけど、
単にストで「試合しない」ってだけじゃなく、
その間、空く体を使って、
何かイベント的な事を仕掛けた方が、
より支持されやすいって思うんですよー。
どうでしょ?
posted by めたか at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月09日

能動的に動くってこと

結局、
音楽のCCCD問題、レコード輸入権問題についても、
野球の合併反対運動にしても、
ずっとずっと、同じ事を言ってるように思います。

要するに
「何もしないでぐじぐじ言っていたって、
 何も変わりはしない」
って事。

まあ、
この2つの問題って、根っこも同じ
(ファンや現場の声を無視して、会社・運営側がごり押し)
って事もありますし。

前に書いた
政治アレルギーの正体なんかも、
そのための文章ですしね。

って事で、
選挙に行きましょう(笑)
(そーゆー文書かいっ!
 いや、週末、帰郷してていないので、
 言っておこうって思って・・・)


###
関係ない話ですけど、
今、ほぼ日でやってる「タモさんの偽善のススメ」って
すげえなぁ。
まぁ、偽善だったら前にこんな事書いてたりしますけど、
その先を言ってるなぁって。
それも書いておこうって・・・
posted by めたか at 06:56| Comment(0) | TrackBack(2) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月22日

世界の圏外から愛を叫ぶ

真心ブラザーズ『愛』をネタに「手法としての弁証法」を解説してみる




「圏外からのひとこと」って
アクセスできない時がタマにあるんです。
でも、そんな時も何故か、過去記事にはアクセスできたりして、
そんなこんなで迷いこんでいるうちに、
こんな文章をみつけてしまいました。
(実は、見つけたのはだいぶ前ですが。)
へぇー、essaさん、真心ブラザーズ好きだったんですね。
確かに、真心ブラザーズの歌詞の世界って、
独特の凄さがありますね。
でも、
確かに『COSMOS』も凄いけど、他にも凄いのがいっぱいある、
例えば『素晴らしきこの世界』とか、
ボブデュランのカバーの歌詞を変えた「マイ・バック・ページ」、
「GREAT ADVENTUR」の頭の3曲、
初期の「ただただ、だらだら」などなど、
そして、何といっても『愛』でしょう!!!

って事で、
今回は真心ブラザーズの『愛』について語ってみます。
一番良いのは、
歌詞を少なくとも一番だけでも全部引用することでしょうけど、
最近のこのブログ、
著作権関係の微妙な議論をしているので、
それはやらない方が良いかな。
興味をもたれた方は
アルバム『King of Rock』収録ですので、是非聴いてみてください。
これは名盤ですので。


この曲の、一番の歌詞は、
ちょうと「弁証法」の構造になっているんです。
「弁証法」というと、
哲学史的には難しい意味合いがあるかもしれませんが、
そういうのではなく、
単に「正、反、合」という構造ってだけと思ってください。
始め、
「愛なんて、そんな素晴らしいものなんかじゃない」
と言って1つのブロックが終わるんです。
で、
次のブロックでは、その真逆、
「愛は素晴らしいものだ」という事を、
意趣返しのように語る。
このように、
一番のAメロの部分は
ちょうど正反対の価値観の衝突構造になっています。

それに続くBメロでは
この「衝突」に何ら回答を与える訳でなく、
まるで関係ないとでも言うがごとくに
「君と一緒に居たいだけ」と言い
その流れのまま、
サビで「愛が君に届きますように」と歌う。

『愛』の一番は、そういう構造になっています。


###

「弁証法」は、
「正」と「反」という異なった(反対の)2つの考えを提示し、
それぞれを踏まえた折衷である「合」を導き出す方法です。
ここで大事なのは、
「正」「反」どっちかに依るものではない、
両方を統合し包含し得る「新しい考え」を見つけ出す、という事なのです。

それを「(弁証法的)止揚」と言います。

「弁証法」という哲学についての評価には、
色々あるみたいですね。
でも、それはともかく、
この「止揚」を見つけ出す「手法としての弁証法」は、
「哲学としての弁証法」とは切り離して、
押さえておいて良いのではないかなって思っています。

さらに言えば、
「ディスカッション」って、
この「止揚」を見つけ出すために
するものなんじゃないかなって、
思うんです。
私が良く「ディベートとディスカッションは違う」って言うのは、
異なる考えとのぶつかりの中から
新しい考えを見つけ出す意思があるかどうか、
を問題にしたいから、なんです。
(そういう意思があれば、
 詭弁を弄したりレッテルを貼付けたり、
 しないと思うんだな。)


さて、では
異なる価値観のぶつかりから「止揚」するには、
どうすれば良いのでしょう?

その「決まった手法」と言うのは、多分ないと思います。
だって、
新しいモノを見つけ出す作業なんですから、
やり方が決まっていたら
「新しく」はないでしょう。

ただ、
私がこの事を教わった予備校の先生には
「異なる価値観のぶつかりの緊張感からしか生まれない」
と教わりました。
つまり、
適当にぶつけてる、出来レースでは見つからない、
って事ですね。

あと、
私のつたない経験から言えば、
「衝突した部分の、原因となる根本の価値観」
を掘り下げると良いようです。
(具体例を挙げれると良かったんですが、
 思いつかなかった。)
議論のぶつかりの中から、
例えば自分の抱いていた偏見に気がついたり、
逆に自分の譲れない価値観を発見したりする。
そうなると、
単に表面的な「対立構造」とは異なった次元で、
「妥協点」を探したり「包含する考え」を見つけたり、
することができるようになったりする・・・
それこそが
「ディスカッションの醍醐味」なんだと思うんです。


###

『愛』のBメロでは
Aメロの「衝突」とは一見関係ない事が歌われます。
しかし、それは実は無関係ではない。
というのは、
Bメロのフレーズは「衝突の根っこの価値観」を見つめた結果、
出てきたものだと思うんです。


###
前にリクエストに応じてメタについて解説した時、
それじゃあって事で
「愛と恋の違いについて」も説明してって言われたんですね。
その時は「下ネタになるのでダメ」と逃げて
「こなんさんの方が向いてるのでは?」と他人に振ったんです。
ま、冗談のやり取りではあったんですが、
それには理由がありました。

というのは、
「愛とは何か? 恋とは何か?」って事を突き詰めると、
結局は
「そんなこと、どうだって良い!」ってなると、
私は思うんです。
今、私が抱いているこの気持ちが、
愛だろうが、恋だろうが、どうだって良い、
ただ、ただ、私はあなたが好きなんだ、それだけなんだ!
そうやって、
ちゃぶ台をひっくり返す事だって。

「愛とは何か? 恋とは何か?」という質問に答えるのは、
いかに感動的にちゃぶ台をひっくり返すかって事だと、
私は思ったんですね。
そして、それだったら、
私のような「理屈屋」より、「詩人」の出番じゃないか・・・
って事だったんです。


###
『愛』の「止揚」は、
そういう「ちゃぶ台ひっくり返し」なんじゃないかって、
私は思っているんです。


(『愛』は実は、
 2番の歌詞の方がスゴかったりするんですけど・・・)
posted by めたか at 08:50| Comment(2) | TrackBack(1) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月20日

たとえ話のつづき

前に書いたたとえ話の妥当性の続きです。
すぐに書くつもりだったんですが、しばらく空いてしまった。

今回は、前回書いたスキームに従って、
建築業界が文化庁にロビー活動を行うと小倉弁護士のブログ
音楽業界が法務省にロビー活動を行うとUnforgettable Days
この2つのたとえ話を検討します。

まず、簡単にこの2つのたとえ話をまとめておきましょう。
建築業界が文化庁にロビー活動を行うとの方は、

「建造物の著作権保護」の名の下に、
住宅の中古販売、賃貸(レンタル)を禁止(制限)しよう
そういう法律を作ってしまおう

そういう話で、
これはもちろん、音楽業界、コンテンツ業界の
「著作権保護の名の下の、中古販売・レンタル規制」
に対する「たとえ話」と言えるでしょう。

一方、
音楽業界が法務省にロビー活動を行うとの方は、

音楽の世界でも弁護士並みの規制を導入すれば?
音楽家が「お金を取っての音楽活動」をするのに、
弁護士並みの資格試験を義務づける、
海外の音楽家もその試験に合格しないと日本で「音楽活動」が許されない

という話で、
「置き換え」という点で言えば
弁護士を音楽家に置き換えた「たとえ話」と言えるでしょう。


後者は何の「たとえ話」なのか?



しかし、
この2つ目の「たとえ話」は、
何を語ろうとした「たとえ話」なのでしょう?

弁護士の「制度」を音楽業界と置き換える事で、
弁護士の「制度」の規制のおかしさを論じたいもの、でしょうか?
いや、まさかそうではないですよね?

そうではなく、
(前者の例のような)
ある業界の話を別の業界の話に置き換えるという
「たとえ話」を批評する、
そういう目的だと思うんです。
(否定されますか?>なすさん
 っていっぱいペンネーム使っておられるから
 なんてよびかければ良いのか・・・)

で、もしそうなら、
「たとえ話」の本来の趣旨からは
はずれていると言えるでしょう。

というのは、
前回に区別したように
「たとえ話と具体例は違う」から、です。

要するに
この「たとえ話」は、
「ある業界の話を別の業界の話に置き換える」
というたとえ話の「具体例」であって、
それがおかしい、というのは、
「ある業界の話を別の業界の話に置き換える」というのは
常に正しい訳ではない、という事を
言っているにすぎないんですね。
(反例は
 「全てがこうである」を否定できるだけであり、
 「全てがこうならない」とは言えない。)
だから、
「ある業界の話を別の業界の話に置き換える」
他の例が「おかしい」という事にはならない、んです。
他の例がおかしいかどうか、は、
個別に検討するべき課題だと思うんです。


前者のたとえ話を検討する



では、
前者のたとえ話について
前回提示したスキームに従って検討してみましょう。

元の話とたとえ話の
「共通点」は
コンテンツも建造物も著作物であり、
それを「著作者保護」の名目で利用制限する
って事であり
「相違点」は
コンテンツは現物より「情報」の方に価値があり
コピーが容易い事
だと思います。
この「コピーが容易い事」は
今回の論点に影響がないとは言えないでしょう。

つまり
コンテンツの方では、コピーが容易いので
レンタルでも購入に近いくらい楽しめるし
コピーしておいて中古販売することも可能でしょう。
その事の影響は、大きいとは言えます。
それこそが、
このたとえ話が多少大げさには思える理由でしょう。

でも、
「著作物保護の名目で利用制限する」ことのおかしさは、
どちらでも共通に言える事でしょう。
そういう意味では
「大げさな点はあるにしても、
 本質的におかしなたとえではない」
と私は判断します。


最後に、
なすさんの記事のコメント欄に書かれていた
>建築物は、著作物以前に「私有財産」
は、コンテンツの現物についても同じでしょ?
CDやDVD、本なども「私有財産」です。
なので、
>私有財産を規制するためには、
>憲法第29条をクリアする必要があります。
というのはコンテンツの方にも言える事で、
それが突拍子であるというのは
違うと思います。
posted by めたか at 21:10| Comment(15) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月16日

たとえ話の妥当性

この話は、ずっと前から書こうと思っていたんです。
でも、
その時にはまだ、「抽象」について説明した文章を
書きかけていた時だったので、
それが終わってから・・・
って事で、
置いておいたんです。

で、
「抽象」について説明した文章は書き上げたので、
(・「抽象的」って言われたら・・・
 ・算数と数学の間
 ・さっちゃんのさんすう
 以上、ホームページ内の原稿より)
たとえ話についても考察してみたいと思います。
・・・って、抽象の説明を書いてから随分と経っていますが、
ちょうど、また「たとえ話の妥当性」を考えたいが出てきたので。


###
たとえ話って、何なんでしょう?
インフォシークの辞書で
たとえる」を引いてみます。

>物事・道理などをわかりやすく説明するために、
>似ていることや具体的なことに置き換えて話す。


たとえ話と具体例は違う



たとえ話は、まず、
「説明のための方法」です。
説明のために、
「似ていることや具体的なこと」に置き換えるのですが、
「具体的なこと」だと単なる「具体例」になるので、
ここでは区別しましょう。

つまり、
「たとえ話」とは、
ある事を、別の似たケースに置き換えてみる
その事で「説明する」
という事なんですね。

でも、
なんでもかんでも、置き換えれば
「たとえ話になるか」というと、
そうではないようです。


たとえ話の妥当性はどうやって判断する?



結論を先に言うと、
「元の話とたとえ話が、同じ『特徴・構造』をとる」
事が、必要となります。
全然異なった『特徴・構造』では「説明」にはなりません。

ただ、
ここで注意が必要なのは、
その共通の『特徴・構造』が、
説明しようとするポイントと合っているか?
という事です。
だから、
たとえ話を聞く時は、
何が共通していて、何が異なっているか、に注意し、
「共通点」がポイントに合っていて、
「相違点」がポイントには無関係なのか、
をチェックしてやる必要が、あるんです。
ここが違っていると、すり替わった説明や議論ができてしまう訳で。
だから、
「たとえ話は有害である」という人もいるくらいです。

ちょっと具体例を挙げてみましょう。


徳保はレイプ魔です



この例は実は、
始めに「たとえの妥当性」を解説しようと思った
動機となる文章なんです。
なので、今更ですが、対象とさせて頂きます。

まず、背景の説明はこちらで。
簡単に書くと、
この「悪徳商法?マニアックス」というサイトは、
「悪徳商法と疑わしき商売をしている会社について
 情報提供と考察をしているサイト」
なんですが、
会社名を実名挙げて書いている、というのが特徴で、
トラブルが絶えないようです。
(そりゃぁ、書かれた企業としては「損害」が大きい、
 ですよね。それが事実だろうが無根だろうが。)

そのサイトを、
検索エンジンが強制的に検索結果から排除した、
という問題なんですが、
その行為の妥当性を、
徳保氏は次のようなたとえ話で考察しているんですね。

「A社は悪徳商法です」を
「Z氏はレイプ魔です」に置き換えて、
その言論(中傷)を強制的に排除する妥当性を検討する

さて、
このたとえは妥当でしょうか?

この2つに共通なのは、
『両方とも、事実でないなら、
 書かれた方に著しい損害を与える」という事でしょう。
だからこそ、
確実に事実と認定された事でなければ、
排除するのは妥当だって考える事ができそうです。

しかし、
この2つには相違点もあります。
一方は個人に対する言動(中傷)であり、
もう一方は企業活動の言動(中傷)なんですね。
企業活動は社会的なものなので、
それに対する言動には公益性があります。
なので、
個人に対する言動とは異なったルールが
必要な場合もあるでしょう。

そう考えると、
この例はたとえ話として妥当であるか、に疑問があります。
つまり
相違点である「企業と個人の違い」が、
言論に対する排除のルールに無関係ではない
(むしろ大きな影響がある)例と言えるでしょう。


たとえ話は何のため?



このように、
たとえ話には、誤解や議論のすり替えが起きやすい、
という側面があるかもしれません。
では、
なぜ、たとえ話は多様されるのでしょう?

たとえ話が使われる例は、
そのままでは説明や理解、考察が難しい場合でしょう。
上手くイメージが湧かない場合や、
情報が多すぎてポイントを絞った議論ができない場合に、
身近な事やより単純な例に置き換える事で、
イメージが湧いたり、ポイントを絞った議論ができるようになります。
この時、
元の話とたとえ話の共通点が
議論・説明のポイントと合っている必要がある訳ですね。
「絞ったポイント」が議論のポイントと
合っていないといけないんです。

つまり、
たとえ話の背後にあるのは抽象的な思考なのです。
抽象的な思考をする「助け」となるのが
たとえ話、なんです。
なので、
どういう抽象化がそのたとえ話でできるのか、
が、「たとえ話の妥当性」を判断する基準となるんですね。


今日はここまでにします。
(一度書いた文章が消えてしまったので。)
posted by めたか at 23:24| Comment(4) | TrackBack(2) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月08日

「市民」という枠組みへの違和感について

で、
1つ前の記事で予告した
こちらの件についての話ですが。
でも、
そのコメント欄の方に、
私なりの整理は、かなり頑張って書いているんです。

>簡単に言えば、
>essaさんは

>「市民」と言うとき、「市民から排除されてしまう者の存在を考えてしまう」

>というのが問題意識なんだと思うんです。
>一方、
>Netwindさん(そして多分私も)の問題意識が

>その「市民」という枠組みこそが問題なのでは?

>という事なのかなって。

記事を辿って読んでいただくと分かると思うのですが、
「市民って何なのか?」という問いを立てたのが
essaさんでして
その整理に対して、違和感を表明したのが
Netwindさん
って事だったんですね。
(なので、
 Netwindさんのこの整理は的確だと思う。)

で、
この整理を読みながら思ったのは、
「これって「みんな」の話と同じじゃ?」
って事なんですね。

つまり、
「市民」とか「みんな」とかの枠組みの話だなって。

「みんな」の件についてのリリカさんのツッコミは、
私の言葉で一言にまとめると、
「『みんな』という言葉に異議申し立てしている人たちこそが、
 多数(みんな)に寄っかかってるのではないか」
だと思うんです。
そして、
Netwindさん、私の違和感も
「市民・市民以外」という枠組みに対するモノな訳で。
ね、同じ構図でしょ?

でも、
引いて考えた時に思ったのは、
「それって方法論の問題だなぁ」
って。

essa氏はきっと、
「みんな」とか「市民」とかの枠組みを認めた上で、
そこから外れた(外された)存在に目を向ける、
そういう方法論を採っているかなって思うんですね。
だけど、
私自身は、そういう枠組みに疑問を呈する問いかけに、
共感するし、そういった問いかけをしたいと思っているんです。

で、
方法論は違うけど、
その根っこにある思想
(何が嬉しいか、悲しいか)には、
大きな違いはないのかなって。


さすがに疲れました。
だいたい言いたいことは言ったかな。
あとは補足説明が足りないって感じですし、
もう良いかって。

明日(今日)は、できれば
CCCD問題の深層を書きます。
だけど、PCの設定とかをしないと・・・
なんで、書けるかどうかは分かりません。
posted by めたか at 02:49| Comment(4) | TrackBack(1) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「みんな」の話に今さらながら・・・

実はこの話、一週間前から書こうとしていて、
何だかんだで書けなかったネタです。
もう良いかなぁ、って思ってたんですが、
やっぱり書く事にします。


始めに「みんなってあんたと誰?」を読んだ時は、
上手い返しだなぁって思ったくらいだったんです。
それに続く話とか、
このツッコミを考えた方の記事とかも、
私にとっては重要ではなくて、
ただ「みんなってあんたと誰?」という返しが、
すごく良いなってだけの話で。
(特にコレ、「あんたと」ってのが入ってるのが
 ミソですね。
 「みんなって誰?」だけなら今まであったし。)

「みんな」って言葉に、
ある種の暴力的な意味合いがあるって事は、
今までに色んな人が指摘してきた事ですし。

なので、
この辺りの記事とかこの記事とかの話を読んで、
なんか話が大げさになってるなぁって思ったんですね。
essa氏のトコには実際にそういうツッコミを残していますし。

でも、
面白いんで、ちょっと遊んでみましょうか。
「みんな」とか「ほんとうに少ない」とかを作った作文って事で。

1)みんな空は青いと言ってるよ。
2)みんなカラスは白いと言っているよ。
3)みんな、さくらんぼブービーはつまんないって言ってるよ。
この記事のコメント欄参照)

4)北朝鮮に住んでみたいと言う人はほんとうに少ない。
5)年金未納議員が許せないと言う人はほんとうに少ない。
6)さくらんぼブービーの面白さが分かる人はほんとうに少ない。

どうでしょうか?
何が言いたいかって言うと、
「みんな」とか「ほんとうに少ない」って言い回しも万能じゃない
って、当たり前の事ですけど。
「みんな」又は「ほんとうに少ない」を使って語る内容によっては
かなりおマヌケになっちゃう。
1)なんて何も言ってないに等しいし、
4)なんて「そりゃ、少ないでしょう」ってなる。
2)とか5)とかなら、
そんな訳はない、と思うでしょ?
(というか、逆に深読みを誘うのかな?)

問題は、3)とか6)とかの「微妙な問題」に使って、
初めて効力が出る、という・・・

でも、
それって、どんな言葉だって、同じじゃないのって、思うんです。

どんな言葉でも、
上手く使えば、その効力を十全に発揮するけど、
使い方が下手だとピントはずれになる。
ものスゴクざっくり語るなら、
言葉には何らかの作用があって、
何かを伝えるために、
その言葉の「作用」を使う、んですね。

で、
こういう文章って、
その「作用」のカラクリを暴いているだけで、
でも、
だからって、その言葉が無効になるとかって訳じゃ、
ないんだと思う。
ただ、
受け取り側が、その作用に対して自覚的になれば良いだけ、
なんじゃないかなって。

それこそが
「リテラシー」なんじゃないでしょうか?


この最後の一言が言いたかっただけ、
だったんですけどね。
でも、
リテラシーって、単に何でも疑うって態度ではなくて、
情報の背後にあるカラクリやメカニズムを理解した上で、
その情報に能動的に向き合うって事だと思う訳で。
(だからこそ、
 「記者クラブ制度」とかを知ってるのが基本な訳で・・・)

そう考えれば、
別に「言葉狩り」とか言わなくても良くて、
単にその作用に自覚的になれば良い、
そして、
場合によっては、それを中和する言葉を使えば良い、
中和する言葉として
「みんなって、あんたと誰?」
って言葉が使えるんじゃないかって・・・


ま、この程度の話だったんですが、
この「みんなの話」ってのが、
今関わってる話に関係するんじゃないかって、
そう思ったので、
この件についての自分の考えを、
やっぱりちゃんと書いておこうって。
で、
次に、こちらの件についての記事を書くんですが・・・

さすがに今日中に書ききれるかなぁ・・・
posted by めたか at 01:39| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年05月08日

人はそんなに強くない・・・

人はそんなに強くない
いつもいつも、正しい事ができる訳でもない。
最善手ばかりを指し続ける事なんてできないし。
ちょっとしたことで、
揺らいだり、自信を失ったりして、
凹んだり、諦めてしまったりもする。

だから、
あんまし批判とか糾弾とかの空気だと、
萎縮しちゃって、色んな事がやりにくくなる、ように思う。
間違っちゃイケナイってなると、
大変、でしょう?

もっと、間違いとか多少の悪いことも、
許容していけないかなって思う。
間違ったら謝ればいいって。
と言っても、
謝るって、あくまでその人の気持ちの問題であって、
強要して謝らせるようなものじゃないって思うんだけど。
なんかみんな、
そんなに「謝らせたい」のかなぁって、最近感じる。
そんな無理矢理に、嫌々謝ってもらったって嬉しくないって思うけど。
だから、
間違いは指摘すれば良いけど、
「謝れ」って、何か違うなぁって。
(まあ場合にもよるんでしょうけど・・・)


なんか、
最近、そういう事ばっか書いている気がするなぁ。
例えば、コレとかコレとか、コレとかコレとか・・・
なんか、
偽善の話なんか特にそうですけど、
人を糾弾するネタを1つ1つつぶしていくってのが、
私の闘いなんかなって。
それが、より自由にできる方法なんじゃないかって、
(だから、
 CCCD問題についても、
 悪者を作ってそれを糾弾して終わりって
 したくないなぁと思っています。)


えっと、
ついでにコレを紹介。
「それは自己責任でしょ」
言葉の専門家が、用法という点から「自今責任論」のおかしさを指摘しています。
posted by めたか at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年05月06日

正義という名の暴力

武田徹さん(左側の「メディアリテラシー」にリンクがあります)が、
5月2日のオンライン日記(告知、健忘録の欄)に、
次のような事を書いていました。

>今井君の三白眼について
>(もちろんその「思想」との関わりであしざまに)平然と書いたり、
>言ったりするものに触れる機会が多くて、なんか嫌な感じがする。

全文をぜひ左側のリンクから見に行って頂きたいんですけど、
私も不快に思っていたので、
(そういう事を前にちょっとだけ書いていたけど)
じっくり読み込みました。
でも、
私なんかは、こういうのに対して、ついつい
「人間性を疑う」みたいな事を言っちゃうんですけど、
でも、引いて考えると、それもある種のプロパガンダではあるんですよね。
それで、武田さんは、
この文章で、単なる道徳論ではなく、
外見で人を判断する事の危険性を整然と説いている。
そういう部分、見習わないと、って思いました。

(うーん、だけどなー。
 私はもう、ああいう言説って生理的に受け付けないもんなー。)


自分だけの正義で、
誰かを裁いたりはしない。
実は今日、そういう事で不快な事をされたってのがあって
(相手さんはちょっとおかしい人だったんですけど。
 でも、そういう人からでも、
 やっぱりショックはあるんだよな・・・)
だからこそ、教訓にしたいなぁって。
posted by めたか at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月30日

因果はめぐる・・・

今の世の中
誰かを裁きたい人でいっぱい

私だって例外じゃない。
自分の価値観で斬ってしまいたくなる事も良くある。
だから、
自分に良く言い聞かす言葉がある。

誰かに対してやったことはいつか自分に返ってくるんだよ

これは
難しい言葉では因果応報って言うのかな。
おお、漢字一発変換。
あと
「情けは人のためならず」という諺も
本当はこの意味だったハズ。

でも、
この本当に日本的な価値観って、今の日本から消え去りそうなのかも。
だけど、
私はこうだって、信じている。


###
人質の2人の記者会見は、
私には好感の持てるものでした。
別に変に祭り上げようって気もないし、
ここで書いてきた事は撤回するつもりはない
(ぎゃくに、今こそ強く言いたい、
 特にこの記事は読んでもらいたい。)
でも、
それを受け止めた上で自分の信念を貫くのなら、
私の価値観とは違うけど、それはそれで頑張れって思う。
全ての人が、私と同じ価値観をもつべきとは思っていないから・・・

###
ん・・・
「広い価値観がない」とか言ってる人は、
ご自身は「広い価値観」を持っているとでも言うのかなぁ?
すごい自信ですね・・・
posted by めたか at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月27日

偽善と偽悪

この文章は、
ホームページで「メタ」という概念について
説明した後で書こうと思っていたネタだったんです.
その上で書こうって、
ずぅっと前からとっておいた話なんですけど。
でも、
最近の言論状況に、ちょっと我慢ができなくなってきたので、
少し不親切ではありますが、書いてしまいます。
「メタ」って事がピンと来ない人には、
イマイチわかりにくい文章かもしれませんが・・・
(後日追記。簡単にですが「メタ」について書いてみました。)

「偽善」という言葉の意味は、わかりますよね。
インフォシークの国語辞典では
本心からではない、うわべだけの善行」とあります。
まあ、「偽物の善」とでも言っておけば良いでしょうか。
「善い人ぶる」って感じかな。
一方、
「偽悪」というものも、出てきました。
これは逆で、「悪ぶる」って事になりなす。

で、
世間一般では、
「偽悪」というのは、「偽善」の反対だと思われがちみたいですね。
だけど、
違うと思うんです。


「偽悪」は「偽善」のメタじゃないかな?


つまり、
「偽悪」は「偽善」の反対なのではなく、
「メタ」なんじゃないかって趣旨の文章です。
だから、「メタ」って事がピンと来ないと難しいんですけど・・・

ただ、
「偽悪」という言葉、考え方は、
「偽善」ということがあって、
初めて作られたものなんだって事は、
わかると思うんです。
「偽悪」って、「偽善」を前提に作られたものだって。

別の見方もしてみましょう。
「偽善」をする人って、
善人って思われたいって事ですよね。
言葉を変えれば、悪人って思われたくないって事で。
それでは、
「偽悪」をする人って、
悪人って思われたいって事なのは、そうだと思うんです。
でも逆に、
「善人」って思われたくない、んでしょうか。
違うと思うんです、
「偽善者」と思われたくない、のではないでしょうか。

つまり、
「偽悪」ってのは、
あらかじめ「偽善」という物事の捉え方があって、
それに対する「恥ずべき事」のようなネガティブな印象があった上で、
それならば、
「偽善」と思われるより「悪」と思われた方が良い、
そういう行動じゃないかって、思うのです。

これが、
「偽悪」は「偽善」のメタである
って事の意味です。

でも、
素朴に「偽悪」を「偽善」の反対と捉えるなら、
違ってくるんですね。
「偽悪」というのは、
実は善なのに悪のように振る舞う。
偽善は、悪なのに善のように振る舞う、
とするなら、
偽悪をしている人の方が実は善人で、
偽善者こそが悪人って捉え方になる・・・

だけど、
少し引いて考えてみたいんです。
偽善というのが何故、批判的に捉えられるのか、というと、
その行為によって、ではないと思うんです。
だって、「善のように」振る舞っている訳ですから。
そうではなく、
「善人と思われよう」という、その意図こそが、
批判されるんだと思う。

でも、
その「他人からの見られ方をコントロールしよう」というのがイヤらしい、
とするなら、
それは「偽悪」の側も、その意図としては全く同じではないでしょうか。

つまり、
偽悪をしている人の方が実は善人で、偽善者こそが悪人
って訳ではない、
どちらも同じようなもの
(ただ、どっちがより自覚的かってだけ)
なのでしょう。

(だから、
 「偽善」っていうのは、
 「善と悪」のメタであって、
 そのさらにメタが「偽悪」って捉えられるのでしょう。)

でも、
思うんですよ、
誰しも、他人に「こんなふうに思われたい」ってのは、
多少はあるんじゃないかって。
だから、
こういう心の動きを、あまり批判しても・・・って。

だから、



もう今後は「偽善」という批判は


ナシにしましょう!



って思います。

もう、これからは、
「偽善」って事だけで人を批判はできないって。
そうではなく、
その行為が本当に「善」になっているか、
具体的にきちんと検討した上で、必要なら批判する、
そうありたいと思います。
また、
誰かに「偽善」って言葉を投げつけるだけで
批判した気になっている人に対しては、
この文章を紹介して、
もう、そういう批判は有効ではないんだよって、
そう言おうと思います。
posted by めたか at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月26日

ジーコ解任運動を支持する理由

またサポティスタ周りですが。
野安さんって方がこんな事を書いていました。

>「似たような考えの人たちの意見だけを吸い上げて、
> それが巨大なムーブメントであるかのように
> 思わせるよう誘導していく」という、
>多くのマスコミ(や市民団体など)がやっていることの
>劣化コピーみたいな手法が目立ってきましたね。
>それは、野安にとっては蔑視の対象です。

ま、
このおりたさんって人は他の事でも似たようなことをしてますけど(苦笑)
(イラクの誘拐事件とか)

でも、
私も「ジーコ解任運動」に対して支持を表明している人間としては、
自分のスタンスってのを明確にしておく必要はあるかなって思いました。

「ジーコ解任運動」を支持する理由の一つ目は非常にシンプルで、
「ジーコじゃダメだと思っているから」
です。
それは、最近の日本代表の試合を見て、
確実にダメになっていってるって感じているから。
私自身が「監督を変えて欲しい」と思っているから、
だから「ジーコ解任運動」を支持する、というのは、
単純ですが強い理由になると思います。

そして2つ目は、
前に「サッカーファンを見習おう!」という文章で書いたとおりです。
別にサッカーに限らず、
単に文句言ってるだけじゃイカンと思うんですよ。
そうではなく、言いたいことがあるなら、ちゃんと声をあげないと。
そしてそれを、見える形で現さないと、
行動に結びつけていかないと、
って思うんです。
(そういう意味では、
 「劣化コピーのような手法」も、自分の言いたいことを形にする手段だって事で、
 そんなに蔑視するもんでもないかもって思う。
 ただ、通用しなくなってくるだけだって、受け手のリテラシーが上がってくると。
 (リテラシーってこういう意味で使うんですよ!)
 それだけの事です。)


だから、
他にもCCCDやレコード輸入権の問題にしても、
テコンドーの時も、
そういう運動に支持を表明し、微力ながら実際に協力もしてきました。
つまり、
基本的にこういう動きは応援していきたいってのが、
今の自分の考えですので。

もちろん。
そういう運動に対して、責任とか色々あるとは思います。
だけど、
あまりにそういう事を追及しすぎていくと、
それこそ「行動」できるのはプロ市民だけだってなっちゃいかねないですし(苦笑)
だから、
まず難しいことを言わずに声をあげてみようよ、
それでぶち当たった問題があれば、
それから考えればいいって思うんです。

で、
ジーコ解任運動については、
「じゃあ、その後はどうする?」って事については、
運動をされている方の考えは分からないんですけど、
私の考えは、先の文章に書いたのと今も代わりはありません。
つまり
「監督に対する評価方法を明確に」って事です。
そこがおかしいのなら、
監督ではなく協会の方の責任追及って事に、なる、
と思っています。

で、
それに対しては、一応は
「欧州遠征で全敗すれば辞任」のような
基準らしきものが表明されたので、
(甘い! って意見はあるでしょうが・・・)
私としては、とりあえずは静観しようと思っています。
(だから解任運動は、
 応援はするけど距離は保つって状態です。)

昨日のジーコの試合後の醜態は、
今回の遠征には、何げに首がかかっているから、
だと思いました。
(たかが親善試合にって言うけど、ジーコにとってはそうではない)
ジーコのきっと必死なんでしょう・・・
(だから、
 私は「やる気がない」のではなく、
 単に向いていないだけだと思っています。
 監督させるの、可哀想ですよ、ジーコは。)
posted by めたか at 22:19| Comment(2) | TrackBack(1) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月21日

自己責任論

まあ、色んな議論があるとは思いますけど。

お金の負担を求めるなら、
ちゃんとルール決めして法律を作るべきじゃないかなって思う。
こんな「感情論」を元に、恣意的な「適応」で請求するべきものではないでしょう。
ちゃんと、国会で論議してみては。

・・・って考え方は、どうですか?

具体的な論議は、こちらで整理していますね。


追記。
それで、ルール決めが出来て法律が制定されたとして、
その法律を元に、今回の人質の人たちに「請求」はできませんから。
そりゃ、そうでしょ、
後からできた法律を元に、遡って請求できるのなら
後でどんな都合の良い法律でも作れば良い訳でしょ。
そんなの、法治国家ではないです。
posted by めたか at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月20日

今日は反省モード・・・

また落ちたPC。
長州のパラパラ、面白ーい!
(今、ごきげんブランニュー見ながら書いています。)

えっと、
今日、紹介する記事も、やっぱりそういう系統ですが。
(だんだん、パターンが読めてきました?)

ジャーナリスト問題

特にココ。
>非寛容な正義感が、
>政権党の幹部政治家から自宅でパソコンに向かい合っている少年にまで芽生え、
>急速に成長して、
>お互いに相手を叩きのめそうと目を血走らせているといった光景は、
>少なくとも、私の60年になんなんとする人生、30年を超す記者生活で、
>かつて記憶がない。

これ、来るでしょ?

私も、「批判する人たち」を。批判しようとしていたかな、と、ちょっと反省モード。

でも、
これを紹介していた勝谷雅彦さんも、
「批判しまくってる人」じゃん!


今日はこの辺で。
最近寝不足だし、最近頑張ってきたから、お休み。
色々と反応したい記事も、
また堅い記事が続いてきたから、くだらない記事もあるんですけど、
まーたーあーしーたー!
posted by めたか at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月18日

芸術家よ、今こそ立て!(なんてね・・・)

もし、自分があの人質の人だったら、どうするだろう?
どう考えるだろう?
あの人達は、どう感じているだろう?

・・・そういう想像ができる感受性が、
だんだんと日本から欠けていってるように思うんです。
日本人の美徳だと思っていた、
感受性の強さが、欠けてきている・・・

だからこそ、
今こそ、芸術が必要とされるんだと思う。
音楽、マンガ、詩、小説、絵、・・・
人の感受性を刺激する行為が、求められている、と思う。

芸術家の皆さん、
今こそ、頑張り時だって思うんですけど。
posted by めたか at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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